美術館らしくない美術館「人間美術館」その他

今日は、青山周辺を散歩。

ワタリウム美術館→スパイラル→「三菱商事アート・ゲート・プログラム」→佐藤美術館という経路だったんだけど、まず先に紹介したいのがこれ

ムンク「叫び」

神宮外苑の「いちょう祭り」会場で発見。

雪竹太郎氏によるパフォーマンス「人間美術館」というやつらしい

検索してみると、結構有名な方みたい。ふだんは井の頭公園での目撃情報が多いみたい。

Because the Living Museum of Art displays paintings as they are seen and not as they are interpreted, it’s a great democratiser, enjoyed by these children as much as (perhaps more than) chin-stroking adults with worthless certificates in art history. So confine your chin-stroking to the gallery and keep it out of the park. This is the other, uncelebrated side of art: not the dusty repository of learning but the universally recognised visual language; not the domain of the genius but the province of the eternal huckster, Taro “Taro” Yukitake.

「人間美術館」では、絵を「解釈されるもの」ではなく、「見られるもの」として展示している。これは素晴らしい(展示の)民主化である。あごをなでながら見ている意味のない美術の知識を持った大人たちと同じように (ことによると、そういった大人たち以上に) 子供達に楽しまれている。だから、あごをなでるのはギャラリーだけにして、公園では(訳注: 難しそうな顔をして展示を見るのは)やめにしよう。これは、知られざるもうひとつの美術の側面だ。研究するためのほこりをかぶった倉庫ではなく、誰にでも理解できる視覚言語であり、天才の領域ではなく、永遠の「香具師」が演じる舞台なのだ

The Living Museum of Art | TABlog | Tokyo Art Beat

Tokyo Art BeatのTABlog英語版より。(俺の英語力の限界を超えた文章で、かなり意訳になってるので注意。正直あまり自信がない (誤訳の指摘歓迎))

ちょっとほめ過ぎのような気もするけど、俺が見ていたときも、前のほうで小さな子供が歓声をあげながら見ていた。

「美術館」っていうと、すすけた昔の絵をみるところ、そこで展示している美術品は、しかめっつらして研究する対象、気取って訳知り顔で難しく論じるもの、になりがち。

確かに、「絵」として表現された根源的なもの(人間的なもの)を一番シンプルに見せるフォームを提供しているパフォーマンスなのかもしれない。

神宮外苑いちょう祭りは14日まで。人間美術館の展示日程は不明。

参考:

最近のChim↑Pom (その1)

「アートソルジャー」(笑い) Chim↑Pomがひきおこした広島での『事件』について。

今回の事件はあくまで「作品の素材」ということで、作ろうとしていたのがどういう作品なのかまったくわからないので、なんとも言いようがないが、見聞きした範囲で感じたことを書いてみる。

といっても俺のような素人が今回の事件をどう考えるか、なんて話に興味がある人もあまりいないような気がするが、どっかの素人みたいな人が「こんなものアートじゃない」と言ってるのを多く見かけたので、まぁ俺が何か言うのも、そういうのと似たようなもんだろうし、ということで、あまり気にせずちょっと一言。

広島での飛行機雲

これはたとえ話で説明するとわかりやすいような気がするんだけど、例えば、映画「プライベート・ライアン」を見て、「ノルマンディー上陸作戦と、その後のヨーロッパ戦線での戦闘がいかに恐ろしいものだったか、知ることができた」と感じる人は、結構いるだろう、と思う。

けど、最後まで見て「そこで(実際に)戦死した人の気持ちがわかった」という人がいたら、うーん、ちょっと、それはどうかな、と俺は思う。

では、「俺はノルマンディー上陸作戦と、それ以後の戦いのことは、よくわかっている。映画『プライベート・ライアン』を見たからだ」という人がいたらどうだろうか。

(映画ではなく、実際の記録に基づいた本や映像をたくさん見た、という人なら「よくわかっている」と言ってもいいだろうか?)

原爆というのは、ちょっと、ひとりの人間が把握できるスケールを超えていると思うので、また少し違う話を例にして言うならば……

例えば、終戦直前「空母の艦載機が道を歩いてる人を追いかけて銃撃した」なんて場面を時々テレビや映画で見かけるけど。

「二十一世紀に、非常に安全な場所で、座り心地のいいソファーにゆったり腰掛けてお菓子を食べながら見る銃撃シーン」みたいな。(実際には、弾に当たれば血が出るどころか身体が木っ端微塵になってもおかしくない。そんな切迫感が全く無い環境でそれを見ているということ)

そんな「北北西に進路をとれ」みたいな感覚で見たものを「いかに恐ろしいことか(テレビで見たり、本を読んだりしたので)わかっている」と主張する感覚というか。

語弊があるかもしれないが、極端に言うと、そういう「体験」が「偽物」でしかありえない、ということがうまく表現されているのが、今回の飛行機雲だと思う。俺がこの「素材」にタイトルつけるなら「被爆六世の原爆体験」とか、そんな感じか。(五世とか四世でもいいけれど)

それは言葉でしかないし、文字でしかない、写真(つまり平面に映し出された、なにかに見える模様)でしかない、それ以上のものにはなりえない。

これは「不快なアート」だと思う。これは実行する前に地元の人達によく相談する必要があった。それは「おふざけでバカにしているから」ではなく『実際に体験したこと』は被爆者以外には伝わらない、伝えられない、だから本当の感覚は「わかりようがない」ということを表しているから。

……で、俺が、こんなふうに、この事件の話を見聞きして「どう感じたか」って話をしたところで、それは俺が勝手に感じてるだけで、実際の作り手のChim↑Pomの意図とは全くかかわりがない話なわけだ。(ここまでの「わかる・わからない」の話は「今回の事件」の話を見聞きしてどう感じたかって話にも適用できる)

作り手の意図と全く関わりが無いという意味では「ふざけている」「くだらない」とかいうのと全く一緒。それは見た人が感じたことだから、正しいも間違ってるもなく、「事実」なんだけど、作り手とは無関係。

だが、先日やっていた高円寺での個展(今回の「事件」で中止になってしまったやつ)、俺はこれ、中止になる前に見に行ってきたのだが、そこで「天気予報の『晴れ』のマークを拡大して背景に置き、その前で集合写真を撮る」というような作品が展示されていたような記憶がうっすらある。(その写真の横にテレビがあって、全国的に晴れている天気予報がエンドレスで映っていたと思う)

つまり、記号的なものと現実世界との関係に対する関心自体は、少なくとも(彼らの中の誰かのなかに)あるにはあったのではないかな、という気がしている。

カラスの作品

で、じゃあ、そんな作品を作る彼らのことを、俺が肯定的に考えているのかというと、実はそうでもなかったりして。

なぜ肯定的に考えられないのか、というと、理由はふたつあるんだけど、まずひとつは、彼らはとにかく「言葉が薄い」ということ。

しゃべる言葉に中身がない。驚くほど薄っぺらい。

例えば、カラスの群れを集めて都内を巡るという、彼らの作品「BLACK OF DEATH」

こういう作品も、あとから理屈をつけて、色々言うのは簡単だ。

カラスってのは、知ってる人も多いと思うが、東京では結構問題になっていて、大雑把に言うと、代々木公園とか新宿御苑をねぐらにしてるカラスが、朝、歌舞伎町や渋谷あたりに出張ってきて、飲食店が出すゴミをあさって食べたりしている (していた) わけだ。

で、東京都では「都民の皆さんからカラスによる被害や脅威を訴える声が数多く寄せられて」いるため、カラス対策のプロジェクトチームを作ってカラスを捕獲したりしているらしい。(参考)

まぁカラスの立場で言えば、「居心地のいい環境」を(人間が意図せず)作ってくれたから増えてしまったわけで、それを迷惑だといわれても、もともと人間のほうで勝手に作った環境にあわせて増えただけなので困ってしまう、と。

「頭悪そうな人間達が勝手にカラスを集めてその周りの人が迷惑がっている」という構図。

おふざけでカラス集めたりして、迷惑じゃないか! ……と怒ってる社会自体がカラスを集めていて、自分達で迷惑がっている……といったような感じ。

ここまで読んで「でも東京都とか関係ないでしょ。実際、卯城君はこんなふうに↓言ってるわけだし……」と思う人もいるかもしれない。

卯城 う〜ん…カラス集めようぜっていう発想は、別にアートでなくてもみんなやってるじゃないですか、おじさんとか(笑)。その発想が面白いかっていったら、別に面白くないから。それよりもやっている上での、どうしたらカラスが集まるとか、バイクの速度がカラスのスピードに合っているとか、カラスが……

Chim↑Pom:面白くなければ意味がない! 「日本のアートは10年おくれている」恵比寿ナディッフアパートで個展開催|カンボジアの地雷で高級バッグ等を爆破したり、ドブネズミを剥製にしたり、こっくりさんでタトゥーを入れたりするオモ... - 骰子の眼 - webDICE

これを読む限り、東京都がどうのこうの、人間社会がどうのこうの、なんてことは一切考えていないように見える。

ところが彼らは、少なくとも東京都のカラス対策のことは知っているらしい。

Accompanying that performance/installation, Becoming friend, eating each other or falling down together (2008), there was a video documenting how the crow had been ‘rescued’ in a midnight raid on one of the traps installed in the metropolis by the famously anti-crow Tokyo Governor, Shintaro Ishihara. ‘We took your crows!’ the artists can be seen scrawling on a sign outside, adding the tag ‘C ↑ Shepherd’ and jokingly aligning themselves with Japan’s environmentalist tormentor, Paul Watson.

……これらの展示と共に、この作品「友情か友喰いか友倒れか」には、ビデオの記録映像があり、どのようにしてカラスが「救出」されたか、「反カラス」で有名な石原都知事が東京に仕掛けたカラストラップのひとつを、彼らが深夜に襲う様子が記録されている。

「お前のカラスは頂いたぞ!」彼らは立て札のひとつにそう落書きし、「C ↑ Shepherd」(シー・シェパード)と書き加え、冗談めかして彼ら自身を、(捕鯨問題で日本を悩ます) Paul Watson氏(の環境保護団体、シーシェパード)になぞらえた。

(ちょっと意訳気味)

http://www.frieze.com/shows/review/chim_pom/

これは、夏に行われた彼らの展示の話で、カラスを集める作品とは別の話だが、とにかく東京都のカラス対策については (トラップがどこに仕掛けられているかを知っている程度には) よく調べて知っていると考えていいだろう。

(ちなみに、上記の記事が掲載されているサイトは、アート雑誌「Frieze」やアートフェア「Frieze Art Fair」で有名なFriezeのサイト) (参考)

まぁ、いちいち作品について細かく解説するべきだ、とは言わないにしても、作品をつくるまでのいきさつだとか、ふだんから関心を持っていることなんかについて、もうちょっとマジメに語ればいいものを、この卯城君の話す内容というのは、だいたいどんなところでも一貫して、うすっぺらく、「別にアートなんかどうでもいい、面白いからやってるだけ」といった、内容の無い話に終始している。

意図して、わざとしらんぷりをしている可能性もあるが、俺は、この卯城君自身は、カラスのことは本当にどうでもよく、(カラスだけでなく、ほかのこともどうでもよく) 実際に作品の企画をしているのは、他の構成メンバーないしはまったく別の人なのではないかと疑っている。

まあ、とにかく俺が言いたいのは「ふざけるなら、もっとまじめにふざけろ!」ということで、語る言葉の薄さにはとにかくガッカリさせられる。

この人たちの発する言葉については(実例を挙げて)もっと言いたいことがあるし、これは彼らを「肯定的にとららえられないふたつの理由」のうちのひとつでしかないので、まだ色々書きたいのだが、長くなったので続きはまたそのうち。

「パクリだ」と言われたデミアン・ハーストの作品をSchemeでパクってみる

勉学の秋! ということで、昔ちょっとかじって、中途半端でほったらかしていたプログラミング言語Schemeの勉強をしてみることにした。

今回は、ちゃんと勉強して「図形言語」とかいうので こんな絵 を描いてみたいなーなどと妄想しつつ……

とりあえず、SVGという画像ファイル(なかみはXML)を、schemeで生成する実験からはじめてみることにした。

さてどんな図を描いてみようかなーと色々考えて、

「そうだ、デミアン・ハースト(ダミアン・ハースト)の点々の作品をパクってみよう」

……と思いたって、色々検索してみたところ、こんな画像を見つけた。

(左: Damien Hirst "Valium")

そうそう、この左のみたいなやつを描いてみたいなー。ところで右の黒いのは何だろう、と思ってよく読んでみたら、なんか右の図を描いた人が「俺の絵がハーストにパクられた!!」と苦情を言ってるらしいことがわかった。

参考

右の黒いのを描いたのはRobert Dixonさん。ハーストに苦情を言ったが、

He claimed that when he initially contacted Hirst in 2003 he was taken aback by the e-mail response from the artist’s manager. Apparently unaware of Mr Dixon’s involvement with it, the manager said that Hirst had drawn inspiration from a book given to him by a friend – The Penguin Dictionary of Curious and Interesting Geometry.

Mr Dixon told The Times: “So Hirst’s manager wrote back to say the drawing was ‘nothing to do with you’, not realising that it was.”

2003年、Dixonさんがハーストに連絡したところ、マネージャーから電子メールで返信があり、Dixonさんとは関係ありません、友人からもらった本「Penguin Dictionary of Curious and Interesting Geometry」というのを見て、それを参考にしたのです、との主張だった。

Home Page – The TLS

……が、その本の図を描いたのがDixonさんで、ハースト側は、それに気づかず結果的に「盗作」を認めてしまったらしい。

といっても、この点々の「柄」自体はDixonさんの独創というわけではなく、自然界でよく見られる柄「Fermat's Spiral」(フェルマーの螺旋・渦巻)というもの。

早速、プログラムを書いて、ランダムに色をつけてみた。

ちょっと色合いが違うような気がする。

実物の色を参考にしてちょっと配色を変えてみた。

たいした違わないかな。どうだろうか。

プログラム作成にあたっては、以下のWikipediaのエントリーが非常に参考になった。

黄金比に基づいた "golden angle" を使って点々を描いていくとこうなるらしい。 (日本語だと黄金角?)

このDamien Hirstの作品「Valium」、アートのネット販売サイト「タグボート」だと137万円で売っていたみたい。そんなに高いのか? と思って色々調べてみたところ、海外で1万ポンド前後で売っているところがいくつかみつかったので、それくらいが相場のようだ。なんか前、銀座のオークションの下見会で見たような、見てないような……

あと、これ描いてみて気づいたのだが、中心のとこをうまく処理しないと点が重なってしまう、ってこと。あと何個点を打つか、ってのにオリジナリティ(?)が出るはずので点の数とか中心付近の模様、あと点の大きさと間隔が似ていれば(もとが自然界の柄だといっても)パクったと考えるのが自然じゃないかなぁ、と思った。(問題の絵はちゃんと見てないのでわからないけど)

あと、このハーストの作品の色はどんな意味があるんだろう。何か意味があるのかもしれないけど正直どうでもいいような気もする。

この図を描くのに使ったプログラムは以下のとおり。

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開放的な自閉空間? パラモデル

今、都内各所で見ることができる「パラモデル」の作品。全部まとめて紹介してみる。

パラモデルってのは、東大阪生まれ、京都市立芸術大学出身の男性二人によるアートユニット。

プラレールを床、壁、天井にバーっと張り巡らせた作品で有名。

赤坂アートフラワー展

まず、赤坂TBS周辺で開かれている「赤坂アートフラワー展」

Akasaka Art Flower 08 - 赤坂アートフラワー08|akasaka Sacas

青山通り沿いの「旧赤坂小学校」の体育館での展示。

天井に張り巡らされているのがパラモデルの作品。中央のふとんの山みたいなのは小沢剛の作品。この写真は準備してる最中に撮影したものだろうか?

俺が初めてパラモデルの作品を見たのは、確か、横浜のBankARTだったような気がするけど(去年だったかな?)、そこで見たときと同じような印象。「すごーーい」という感じ。

何がどう凄いんだ? とか聞かれたら答えようがないけど、とりあえず凄い。わーっと広がってるし、みたいな。

この展示は13日(月曜)まで。

この展覧会、会場が数箇所に分かれていて、歩いて全部周ると結構ある。あと、今回の展覧会とは関係ないんだけど、TBSのすぐ横にフンデルトヴァッサー(フンデルトワッサー)の作品があるのを偶然見つけた。これも面白かった。


「赤坂アートフラワー 08」展
会場: 赤坂サカス
スケジュール: 2008年09月10日 〜 2008年10月13日
住所: 東京都港区赤坂5-3-1 赤坂サカス

「都市のディオラマ」展

で、次。渋谷の東京ワンダーサイト。「都市のディオラマ」展。

ここではプラレール作品だけでなく、ちょっと違った感じの作品も見ることができる。

塩ビのパイプをつなげて立体的に展開した作品。

この写真は、数日前、tumblr.を彷徨ってて見つけたもので、今回の渋谷での展示の写真ではないと思うが、雰囲気はだいたいこんな感じ。(どこで展示した作品だろう?)

これはプラレールの作品とはちょっと違って、「すごーい」ってだけじゃなく、じーっくり、はしっこから、はしっこまで見てしまった。

うまく言葉にならないんだけど、自分の世界に閉じこもって、一日中パイプをつなげて遊んでたら楽しいだろうなぁ、みたいな。

別の言い方すると、よく「地図を見るのが好き」とかいう人がいるけど、じーっと地図を見て「こっちの町からあっちの町に道がつながっていて……」「こっちにも道があって……」とか、熱心に地図を見ている瞬間、一瞬他人の存在を忘れて地図を見るのに夢中になってしまう瞬間、そんな感覚を思い出してしまう。

考えてみると、プラレールもそう。組み立ててる最中は完全に自分の世界に入り込んでしまいそうになる。

次はこのレール、その次はあのレールをつないで……と一心不乱に組み立てていると、近くに人がいても、その人の存在をすっかり忘れて楽しんでいる瞬間があるような気がするけど、そういう「空間的には、どんどん広がっていくし、他の人との共同作業で組み立てていくものなのかもしれないけど、同時に作ってる瞬間は自分だけの世界に一瞬入ってしまいそうになる」感覚、が共通して感じられる。

これも13日まで。


「都市のディオラマ: Between Site & Space」展
会場: トーキョーワンダーサイト・渋谷
スケジュール: 2008年09月13日 〜 2008年10月13日
住所: 〒150-0041 東京都渋谷区神南1-19-8
電話: 03-3463-0603

パラモデル 「Pなる想い」展

次、神楽坂のギャラリー「MORI YU GALLERY TOKYO」

こじんまりとした展示空間だが、絵、ドローイング、ミニカーなど、いろんな作品を見ることができる。

こちら↑のブログで、作品の一部を写真で紹介してくれているが、面白かったのが「大崎」(俺には「大山崎」みたいに見える気がする)と書いてある作品。

「書いてある」というか、これは一軒(?)の家の間取り図で、麻生総理の実家みたいな物凄く大きな家の間取りで字を書いているという作品。

こういう不動産の間取り図ってのも、プラレールや塩ビパイプの作品みたいに「上から目線」でジーっといつまでも眺めて色々妄想してしまう図柄というか形だと思う。

この展覧会、11日(つまり今日)までやってるらしい。


パラモデル 「Pなる想い」
会場: MORI YU GALLERY TOKYO
スケジュール: 2008年08月30日 〜 2008年10月11日
住所: 〒162-0812 東京都新宿区西五軒町3-7

「拡張された感覚:日韓メディア・アートの現在」展

で、最後が初台のICC

ここでは、冒頭で紹介したような巨大なプラレール作品をみることができる。

この展覧会、パラモデル以外の作品もとても面白かった。どの作品もよく工夫されていて、なかなか楽しいものばかりであった。

これは、来月、11月3日までやってる。


「拡張された感覚:日韓メディア・アートの現在」展
会場: NTTインターコミュニケーション・センター
スケジュール: 2008年09月23日 〜 2008年11月03日
住所: 〒163-1404 東京都新宿区西新宿3-20-2 東京オペラシティタワー4階
電話: 0120-144199


ちなみにパラモデルとは関係ないけど、10月13日(月曜)まで、ICCでは、「HOW TO COOK DOCOMODAKE ?」っていう、ドコモダケ (ドコモの独りよがりなキノコキャラ)をテーマにした展覧会も開催中。写真撮影自由で、松井えり菜や近藤聡乃らの作品を見ることができる。

……んで、このパラモデル。どういう意図で何を表現している「アーティスト」なのだろうか。

「お互いが同じ空間にいるけど、違う時間で遊んでいて、それがある瞬間混じり合うときもある。模型や積み木で子どもがゴッコ遊びをやっているようなニュアンスですね。そういう遊びからフッと何か不思議なものに飛躍する瞬間があって、その辺のおもしろさをずっと考えていますね」

◇ ターナー色彩株式会社 ◇美術手帖

「誰もが知っているプラレールで、インスタレーション(仮設的な空間展示)というものをぐっと分かりやすくした」

「彼らがいると空間が一つにまとまる。今回の4カ所も彼らがつなげている感覚がある」……つまり、現代美術と社会をつなげる力。

「場所が変わると作品の意味も変わる」

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200810020081.html

「型破りな3Dグラフィティ」

「このプラレールを使った作品も、基本的に子供の頃にやってた模型とか、ジオラマ遊び、ゴッコ遊びの延長線なんですよ。ほら、子供2人が一緒に地面に落書きしてる時に、もう1人の落書きと自分の落書きを組み合わせて遊んでるような。そういう意味で遊びに興じてる一種の「パラダイス」状態とも言えるし」

一見無機質に見えて、実は非常に手の込んだ作業を経ている、それは都市という存在にも同じく当てはまるもので、インパクトとは裏腹にとても奥深い

PingMag - パラモデル:レールで描くグラフィティ

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「都市」とパラモデルの作品を対比して考えてみるのは確かに面白そう。実際の「都市」は大人が「組み立ててる」んだけど、案外と子供が遊んでるような、幼稚な感覚で拡大している側面もあるのではないだろうか。

しっかし、同時にこれだけたくさんプラレール作品展示して、全部終わって撤去したら、すごいプラレールの山ができそうだ。

「こういうことを言う人は作品を見るということをよくわかってない」

……と書いていて思い出したのだが、ex-chamber museum の幕内政治さんが、彼のレビューを読んでいる人からよく「見に行けなかったけど、幕内さんのブログを見ているので助かっている」と言われるそうだ。こういうことを言う人は作品を見るということをよくわかってない。

The World According to Kengo:「良かった」と思った作品のどこが良かったかを説明するのは難しい

俺はもともと、「アート」にはほとんど全くといっていいほど興味がなかったのだが、いろんな偶然が重なって少しずつ研究するようになり今日に至ってるんだけど、その「アートに興味を持つようになった理由」のひとつに「見ること」の意味を知りたい、ってのがあって。

例えば、過去十年〜二十年くらいの情報技術ってのは、リアルの世界に存在するものをデジタル化してデータにすることで色々便利な世の中にして行こう、って流れがあったと思うんだけど、そこでは「リアル」の物体とデジタル化した「データ」は、当然別物なんだけど、その一方で、同一のモノとして扱うことができる側面もある、という前提でいろんなデータが作られているわけだ。

例えば、デジタルアーカイブとかいって、昔の美術作品をスキャンしてデータとして保存してハイビジョンテレビで見せるとか、よく美術館に置いてあったりするけど、そういうシステムを企画して作ってる人たちは、スキャンしたデータを画面で見ることに「意味がある」と思ってる人たち、なんだと思う。(たぶん)

まあ、古い絵だと、崩壊してなくなっちゃう恐れがあるのでデータだけでも無いよりマシって考え方もあるんだろうけど。

で、ここで唐突にあるかたのtwitterでの発言を引用させてもらうけど、以前、eigokunがこんなことを言っていた。

絵の具の厚みで表現している時点で、絵としては失格だ。印刷されても劣化しない絵が、正しい絵だ。

eigokun on Twitter: "絵の具の厚みで表現している時点で、絵としては失格だ。印刷されても劣化しない絵が、正しい絵だ。"

直感的に言えば、これは(eigokunらしい)少し違和感を感じる考え方だと思う。実際にこんな反論があった→ http://twitter.com/VoQn/statuses/434624962

ただ、じっくりよく考えてみると、これはそんな簡単に否定して終わることのできない、意外と奥深い考え方であるようにも思えてくる。

例えば、ここに平面の「絵」があったとして、それは物理的な存在であると同時に、大勢の人たちのあいだで「評判」として抽象的に存在しているモノだ、といういいかたもできるであろうから。(こういう話、哲学に詳しい人は専門用語駆使してもっとかっこよく説明できるんだろうなぁ)

よく、西洋の偉い人が描いた絵なんかだと、日本では「画集でしか見たことがない」人がいたりする。(つまり画集として「印刷」されても「劣化しない」で価値を持つということ(金銭的な価値も含めて))

例えば「フェルメール全点制覇」とかいう言葉があるのは裏返していうと「制覇して無い人」は、見たことないのに「わかったつもりになっている」ということではないだろうか。(実物見る前から、それがいい絵だと知っているから見に行くんでしょ)

確かに俺もフェルメール作品が全点載ってる本は持っているが実際に全部見たわけでは無い。

では、この文脈で、逆に「印刷して劣化する絵」というのはどういう絵なんだろうか?

……と、考えを進めていくと、なんだかモヤモヤしてきて、まるで「印刷して劣化する絵は『正しくない』絵」なのかと思えてくるが、別にそんなことはないだろうと思う。(印刷して劣化する絵は、よくみると印刷する前から劣化してるんだろうなぁ(見る人の心の中で))

最初の話題に戻ると、俺はそんなわけで、「パソコンの画面だけで絵を見てわかったつもり」になることは、俺にとって「見ること」の意味を考える助けにもならないし、あまり意味が無いことだったりする。

なので、幕内さんのブログを見て「見にいけなかったものが見れて助かっている」と思ったことは一度もない。(実際に見たい、と思うものを画像だけで見てもあんまり意味ないんで。全く意味ないわけではないけど)

そのかわり、全然行くつもりのなかった展覧会の画像を幕内さんのブログで見て、これは面白そうだな、実際行って見たらどんな感じになるんだろう、と思って見に行くことは、しょっちゅうあるのでとても助かっている。(幕内さん、いつもありがとう!!!)

画像で見て面白い展覧会は、ほとんどの場合、実際に見ても面白い。

ただ、感じ方はかなり違う場合が多い。

画像で見てパソコンの前で盛り上がって、行ってみるとあまり面白く無い場合もある。

Chim↑Pom 友情か友喰いか友倒れか/BLACK OF DEATH・清澄 hiromiyoshii

清澄にあるギャラリー、hiromiyoshii、

参考

そこで開催中のChim↑Pomの個展。

参考:

題して「友情か友喰いか友倒れか/BLACK OF DEATH curated by 無人島プロダクション

ギャラリー奥に粗末な小屋が作られている。

小屋の壁はブロックで組んであって、トタン屋根がかかっている。

そこにカラスとネズミとChim↑Pomのメンバー水野氏が入っている。

で、小屋の壁には窓があるんだけど、マジックミラーになっていて中から外は見えない(らしい)。で、外から見ると、その窓には額縁がつけられている、と。一応出入り口はないようなので密閉されているといえば密閉されているんだけど、通気の口があるので、外の音は聞こえている様子。

まあ、窓に額縁がついてて絵みたいな感じにみえるわけです。「部屋とワイシャツと私」ならぬ「カラスとネズミと水野君」みたいな。

しばらく様子を見ていたら、お盆の土曜日なのに (さらに小山登美夫で展覧会やってないのに) チラホラ見物人が来て、楽しそうに中の様子を見ていたけれど。

……俺はあんまり楽しくなかった。

この作品の正確な意図はよくわからないけど、俺の解釈を言えば、小屋の中は、彼にとっての「世界」のすべてで、窓の外から覗いている見物人は、神様のような、小屋の中の人からは想像も付かないような存在になってる、と。(ジム・キャリー主演の映画「トゥルーマン・ショー」みたいな)

なぜカラスとネズミがいるのかは、よくわからないけど、小屋の「外」には、それら以外のもの、つまり、人間にとって、楽しくて暇つぶしになるものが沢山あるわけだけれど、例えばの話、小屋の中で生まれた人がいたとしたら「世界は白いブロックの壁でできていて、カラスとネズミがいるところ」だと思うことでしょう。(部屋の外に何があるのか想像すらできない)

実際には、なかにいる水野氏は「外の世界」を知っているわけですから、小屋に「閉じ込められる」のは大変なことだと思いますが、まぁ要するに、よく自殺する人がいますけど、そういう人達にとって、「世界」ってのはこの小屋みたいなもんなわけです。

細かく言うと、小屋の中にはカラスとネズミ以外にもウェットティッシュとか、ノートとか色々あって、俺が見に行ったときには水野氏は、ノートに日記を書いていました。(カラスの振る舞いを観察して観察日記みたいなのを書いていた。他に書くことないんだろうけど)

なんだか俺がこうしてブログを書いている様子と通じるものがあるような気がして憂鬱な気分になった。

我々がいる世界と、この小屋は何が違うのだろうか、といえば、もちろん、我々の「世界」は一生かかっても周りきれないくらい広いし、人は大勢いるし、パソコンはあるし、Perfumeもいるし、おいしい食い物やらお酒があったりする。将来何が起こるんだろう、という希望もある。

でも、昔、子供の頃熱心に遊んでいたのに、今は「子供だまし」にしか思えない「くだらないもの」ってのが誰にでもありますよね、例えば積み木遊びとか、おままごととか。

今やってる仕事、今付き合ってる友達、今趣味でやってること、そういうのがぜんぶ、ままごとのような「くだらないもの」に思えてしまったら、後に残るのは水野氏が見ているようなつまらない風景だけになってしまうことでしょう。(カラスとネズミってのはつまらないもの、普段視界に入れたくないと思うものの象徴ですかね?)

水野氏にPSPかなんかを差し入れてあげたら問題は解決するでしょうか? なかなか哲学的な作品だと思いました。

この展覧会、Tokyo Art Beatにものってないし、hiromiyoshiiのサイトにも出てない(今日、今現在) ので、開廊時間とか休日が全然わからないですね。買い物のついでに寄って、閉まってたらあきらめよう、と思って行ったので俺は別にいいんですが。(ふつうは日、月休みで昼の12時からですが、お盆休みがわからない)

これ見る前に、船橋のイケアにいって、湾岸道路をエアコン切って窓開けて走ったらどんな感じだろう、という実験をしたら本気で吐き気がしてきて(温度計が37度とかになってた) 気分悪いまま、これを見たので、なんかネガティブな感想になってしまった。

雨宮庸介 ムチウチニューロン展・ 竹村京 Apart a part展、トーキョーワンダーサイト・渋谷

ひさしぶりに面白いものを見たのでメモ。

渋谷のトーキョーワンダーサイトで開催中の二人展。

渋谷のワンダーサイトは、公園通り側の入り口から入ると、左手に、螺旋階段があって、一部二階建てになってる空間があり、右手には窓のない部屋が二室(大きい部屋と小さい部屋が)ある。

今回の展覧会では左手の螺旋階段側の空間が竹村京、右手の窓のない二室が雨宮庸介の会場になっている。

竹村京の作品は、トレーシングペーパーに描かれた誰かの部屋。部屋のまんなかにピアノ。なんか、女性がピアノの前に腰掛けて、ポロロン、ポロロン、と弾いていたような気がするんだけど、あれは作家さんもしくは関係者?

その他、刺繍を施した絹の布がいろんな小物をくるんでいる。繊細、かつ、上品。どこか難解な近寄り難さも、ほんのり感じられる作品群。どっかでみたなあ、と思って今調べてみたら、去年、Taka Ishii Gallery で見た方であった。

どういう意味がある作品なのか、ハッキリいってよくわからないが、やわらかな布と刺繍の繊細な質感が、がさつで無神経な現代社会をオブラートに包んでいるかのような、(違うかな?) どこか、あく抜きされたホワイトアスパラガスのような居心地のよさを感じさせる空間であった。

で、面白かったのが、もうひとつの、窓のない部屋のほうでやっていた雨宮庸介展。

まず、入り口が狭い。いつもは、ふつうの扉があるところに板が張られ、入り口の扉がやけに狭くなっている。

(以下、ネタバレというか、どんな作品なのか書いていきますので、そういうのを読みたくない人は注意)

なんだか面倒くさそうだなあ、と思いつつ、扉を開け、体を斜めにして入ってみるとナント、部屋の内側から見ると、入り口がロッカー(更衣室とかにある縦長のロッカー)になっている。

つまり、部屋の中から見ていると、俺がロッカーの中から唐突に出てきたように見える仕掛け。出るときは当然ロッカーの中に入っていくような格好になる。

で、二室あるうちの、奥の狭いほうの部屋の作品は、たぶん、これ↓と同じもの。

鏡のような感じでディスプレイを壁にかけ、そこに室内の映像を(当然鏡像にして)流すと。

見てるほうとしては、鏡のような感じに見えるが俺の姿は映っておらず、その代わりに、いろんなドラマのようなものが映像でそこに展開していく。見ていくうちに「ほー、この空間でこんな出来事が起こっていたのかー」みたいな臨場感を感じることができる。

単純な仕掛けだが面白い。で、その映像に見入っていると、隣の部屋でなにやら物音が。

隣の部屋(入り口を入ってすぐの大きな部屋のほう)にも、壁に(鏡のような)映像が流されているんだけど、その部屋に変な人がいます。

上半身裸で水泳のゴーグルをつけたお兄ちゃんが。

で、壁の映像と微妙にシンクロしながら、床にりんごを転がしたり、寝そべったり、シャツを着たり脱いだり、ロッカーに入ったり出たり、花の茎にバケツの水をつけて、床に転がったりんごの周りを丸く括ったり、それを見ている俺の足元も、丸くくくって結界のようなものを張られ、りんごの丸と俺の足元の丸を花の茎でなぞったりしている。

このお兄ちゃんはいったい誰なんだろう? (雨宮氏?)

日曜の昼前だというのに、観客は俺ともう一人しかおらず、俺はもちろん誰かにパフォーマンスやってくれ、と頼んだわけでもないのに、このお兄ちゃんは一体、何してるんだろう? ……と、頭の中が「?????」になってしまった。

普通の感覚で言えば、ウェブサイトなどで「日曜日は随時、作家本人がパフォーマンスしております」的な告知をするところだと思うが、それをやってないように見える(実際俺ともう一人しか見てなかったし) ということは、人に見てもらうことはプライマリーの目的ではなかった、のだと判断せざるを得ないが、なんというか、渋谷のど真ん中、公園通りに出ると大勢の人が行きかっている日曜の昼前に、なんともシュールなパフォーマンスを見てしまったという感じ。

雨宮庸介というと、とろけたりんごのオブジェしか知らなかったので、事前にしつらえてあったインスタレーションと共に、この奇妙なパフォーマンスを見て、新鮮な驚きがあった。

ただ、新鮮なのはいいのだが、これが彼の表現を世間に伝える一番効率のいい方法なのかというと、よくわからない。彼の作品が、何十万、何百万人の人達、世界中の多くの人達に鑑賞されたときに、安直に消費されて終わらないだけの強さがあるのかどうかはわからないが、とにかく、もっと大きな舞台で多くの人に見てもらう価値があるのは確か、であるように感じられた。

ゴーグルのお兄ちゃんが出演する時間はわかりません。見に行っても誰もいないこともあると思われますので念のため。8月31日まで。

雨宮庸介 + 竹村京 展
会場: トーキョーワンダーサイト・渋谷
スケジュール: 2008年06月28日 〜 2008年08月31日
住所: 〒150-0041 東京都渋谷区神南1-19-8
電話: 03-3463-0603