「誰もがみんなアーティスト」

昔々、その昔。こんなことを言った人がいました。

「誰もがみんなアーティスト」

どのような社会においても、特定の芸術能力に秀でた人たちは、三角のピラミッド型に分布していると考えられます。

つまり、「万人を魅了できる普遍的な芸術を提供する表現者」は少人数しか居らず、一方「数人に受けるだけのマニアックな芸術の提供者」はもっと多数いるということです。このことを図にして示すと次のようになります。

横軸は人数。縦軸は上に行くほど「万人を魅了できる度」が高いということです。

Aに位置する創作者は、ごく一握りの「万人を魅了できる度」の高い人。ジェリー・ブラッカイマーみたいな人ですかね。Bのあたりの底辺にいる人は人数は多いですが、その創作者の作品に魅了される人は少ないです。

で、「IT革命以前」は、三角の上のほうの人しか「創作」で食えなかったわけです。

それが「IT革命」のおかげで採算ラインが下がりますので、三角の下のほうの人でも食えるようになるわけです。

その人は、こう言います。

たとえば、チラシをまくことしかできない古い情報技術の下では、マニアックな消費者を探し出すのには非常にコストがかかります。こういう時は、金をかけ死ぬほどチラシを配っても十分採算にのる一部の創作者だけが、プロとしてやっていけるマス・エンターテイナーになります。ピラミッドで言えば頂点あたりの少数者だけがエンターテイナーとして自己実現できるということになります。

 ところが、そこで、なんらかの情報技術の革新=IT革命があり、消費者を探し出してくるコストが劇的に下がったとしたらどうでしょう。芸術家になる採算ラインも劇的に下がることになるはずです。すると今までの情報技術(チラシ配布)を前提にしたら、プロになれなかった人たちが、プロになれるようになるわけです。

こういう話は「新味に乏しい」ですね。どっかできいたことがあるというか。

俺がこの話を聞いた(というか、目にした)のは、確か1999年のことだったと思いますが。

くちの悪い人はこんなふうに評するかもしれないです。

……何か新しいものを見ると直ぐに飛びついては頭ン中がお花畑みたいになっちまって、都合のよい夢物語に陶酔する愚か者が昔(いつの時代にもいるが)大勢いて、ネットバブル崩壊と共に消えちまった。

俺は正直いって、当時この話を読んでもあまりぴんと来なかったんですが、それはなぜかというと、俺は、当時も今も、芸術に関しては、創作物の受け手なわけですが、この話って言うのは、要するに創作物の受け手から見ると、「今まで俺の手元にチラシが届かなかった『万人には受けないけど俺は面白いと思える』芸術」なるものが俺の目に触れるようになって、それに俺が金を払う、って話なわけです。

んで、俺はそれがどんなものだかもわからないし、そもそもそんなものは探してもいないので、こういうスキームで「誰もがみんなアーティスト」になれるとは思えなかったわけです。

で、まあ、ここまでは、いいと思います。なんというか、思いつき的というか。

あ、ていうか、「誰もがみんなアーティスト」になれる世界っていうのは、実際にくるかもしれませんね。コンテンツの受け手がそういうニッチなものに金を払いたくてウズウズして血眼になってそういうのを捜し求めているのなら。

で、それはいいのですが、問題(?)は、この話をした人ってのが京都大学の経済学部を卒業して日本銀行エコノミストをしていた、という「経済の専門家」の話だってことなわけです。そう思って聞くと、なんだかすごそうな話のような気がしてきたりして。(だって、かなり凄い経済の専門家で滅茶苦茶頭の頭のいい人のはずだし!)

この話の引用元→ 誰もがみんなアーティスト (劇団アロッタファジャイナ主催・劇作家松枝佳紀氏による)

で、この「劇作家」っていうのはなにかというと、このかたは日銀に勤めていたのにそれを辞めて劇作家になってしまったんだということ。

俺が聞いた話では、このかたはどうしてもどうしても劇作家になりたくて、それで日銀を辞めた、とおっしゃっていたような気がするんだけど、こんな話もある。

……というかぼくも脚本家として関わっているのだから、支援してくれ、という気持ちが強まったわけです。下手に映画に行くよりもイキで面白い演劇がすぐそこでやっているのに、ほとんどの人たちが演劇といえば劇団四季みたいにしか思っていなくて、その面白いはずの小劇場演劇に辿りつけない。

辿りつけないから、演劇はますますコジンマリとする。

コジンマリとするから演劇という情報発信方法を選んだ人たちはずっと貧苦にあえいだまま。…こういった悪循環を抜け出すためにネットは何か出来ないだろうか…と考えるうちに、いくつか思いつくことがありました。

当時ぼくはまだ日銀にいましたから、「小劇場演劇マーケットの経済学」みたいな論文を書いて公表し、小劇場演劇のマーケットを変革するように促したいと思いました。

しかし当たり前のことですが「それは日銀のすることか?」と上司。確かにそうです。ぼくのしたいと思っていることは、たぶん日銀でできることではない。

そう思ったが吉日。ぼくは深水さんとかに少し相談すると、速攻で日銀を辞めることを決めました。

Bit Valley Magazine Vol. 59 (2001/7/17)より

んで、お辞めになった後は劇団を主宰し、脚本を書いて公演をしつつ、映画「デビルマン」他の製作にも携わっていらっしゃるとの事。参考:Wikipedia: 松枝佳紀

で、このかたの話を唐突に思い出したのは、この↓ブログを拝見したからなんだけど。

……兼業も含め10万人いるなら、アーチストを目指すことは、「誰にでも可能とは言えないが努力次第では充分可能であり、現実性を考慮しつつ多少高めに置く人生目標としては適切なレベルの夢」になるだろう。兼業アーチスト+バイトという着地点を目指し地道に研鑽をつむことは、堅実かつ意義ある仕事で、尊敬されるべき生き方になるだろう。

「世の中は厳しい」なんて大嘘 - アンカテ

いろんな方が指摘されているように、この部分↓はちょっとひっかかるけど

私自身は、自分が生きる為になんらかの価値を生み出すことは、誰にとっても簡単なことだと考えている。

この部分はとりあえず、横においておいて、それ以外の部分についてだけど。

id:essaさんのエントリーもコンテンツの出し手の目線で書かれているような印象を受けるので、先に紹介した話同様、俺はあまりぴんと来ない。誰がそれに金を出すのだろうか? (出したがっているのだろうか?) という印象。

ただ、一方で、これはネットでうまく国境を越えて、しかるべき人たちにリーチできれば確かにうまくいくかもしれない、という気もする。(日本国内でうまく行くような気はしないなーいまのところ)

以前、日本橋にある、とあるギャラリーにひやかしにいって、ご主人に色々話を聞いたら面白いことを言っていた。

そこのギャラリーでは、若い、ほとんど実績の無い「現代美術家」の作品を扱っているんだけど、ウェブサイトに画像を載せておいたら外国の人がそれ見て絵を買いたい、と連絡してきたのだそうだ。(俺ならウェブだけ見て即注文ってことはありえないけど。それもよその国の若い人の絵なんて)

ほかにもいろんな話があるんだけど、総合すると、外国の人は結構気安く絵を買うらしいという印象。

例えば、こないだtumblr.でこんな絵を見つけたんだけど、

http://turubara.tumblr.com/post/9397881

http://hisamichi.tumblr.com/post/9443222

リンク先をクリックしてみると、なんとこの絵は一枚2400ドル(27万くらい?)で売られている、30枚限定の版画らしい。(これをつくったかたは年季の入ったプロらしいんだけど、日本ではあまり知られていないはず)

あと、もっと安いのだと、以前紹介したdeviantARTっていう、アマチュア(プロもいるけど)の作品投稿サイトでも、作品の高画質プリントを売っていたりする。

deviantART Prints - prints on canvas, photo paper, and more

例えばこれ「Afternoon in Odawara. by Koony」小田原の絵? が10x15インチサイズのプリントで2200円。(殺風景なお部屋のアクセントにいかが) まあ、どれくらい売れてるのかはわからないけど。

誰でも月20万! は大変そうだけど、努力してそれなりのレベルに達した人には、20万までいかなくても、もうちょっと現実的な数字で創作物に対してお金が動いてもおかしくない……状況かもしれない。アメリカは。

id:essaさんのエントリーは「いつ」そうなるのかが不明確なので現実味が(必要以上に)乏しくなっていると思う。まずアメリカでうまくいったら、その数年後に日本でも、っていうのはありうるシナリオだけど、実際アメリカではどんな感じの市場規模になってるんだろう、こういうの。

ちなみに、前述の松枝氏、日銀在職中には「ビットバレーの会合」(Bitstyle)に当時の速水日銀総裁を誘って連れて行ったという洒落者らしい。

起業家たちの梁山泊「ビットバレーが燃えた夜」

なつかしい!! いいねえこういうの!! 大好き!! ^^)