これは誰でしょう

j0hn2008-03-02


この新聞記事、誰の記事でしょう(この写真→は関係ないです)

正解は片岡鶴太郎。(今朝の日経朝刊より引用)

今年は茶道だそうです。この調子だと、来年か、さ来年ぐらいにはろくろをまわして壷を作り始めそうな勢いですね。(で、その壷が驚くほど高かったりして)

もともと鶴太郎にはあまり興味がなかったんだけど、先日読んだ「アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人」で言及されていたおかげで最近、非常に気になっている。

この本では鶴太郎について、「過去と決別したかった男の焦心と小心」つまり、ぶざまで下品、「小太りでブサイクなお笑い芸人」であった過去を葬り、カッコよく生まれ変わって周囲を見返そうとして絵を描き始めたのではないか、と論じている。

これはちょっと意外だった。読み進めながら、最後は「モノマネとしてはよくできているが本物ではない」といった結論でしめるのかなーと思いつつ読んだから。

俺は「アーティスト」なる肩書きがカッコイイとは全く思っていないので、鶴太郎がカッコつけるために「画伯」になったのだろう、という発想もないし(実際大してかっこよくもないし) 鶴太郎に対しては、いきなりどうしちゃったんだろう、ぐらいの印象しかなかったので周囲を見返そうとした、というのもよくわからなかった。(だって、人から笑わるのが嫌なら最初からお笑い芸人なんかにならないでしょう?)

ま、それはいいんだけど、そこで色々考えたのは、「本当の独創性」っていうのは「頭がおかしい」ってことじゃないか、ってこと。

つまり逆にいうと、例えばここに、絵(や彫刻)を学ぶために美術大学で勉強してる人がいるとする。で、卒業して芸術家になったとする。

そこで社会からその人に求められているのは「期待通りの芸術家像」でしかないのではないか、ということ。より正確に言うと「期待以上のアウトプットを出すことを期待されている」というか。ただそこで求められているのはあくまで「想定の範囲内の意外性」でしかないのではないか、ということ。

鶴太郎は、いわゆる「画伯」という言葉から社会が期待する「画伯像」に非常に忠実にふるまっている。俺は鶴太郎の活動はよく知らないのだけど、このアーティスト症候群に書いてある鶴太郎の様子はそう。大野さん自身「型を真似るのが大変にうまい」と述べている。

本物の芸術家と鶴太郎はどこが違うのだろうか?

ちょっと話が変わるんだけど、今年、藝大の卒展を見にいったら、油絵科で豆乳モツ鍋を作ってふるまっている人がいた。葛谷さんという方で、(ごちそうさまでした) 今月の14日まで横浜ZAIMでも展示をされるとのこと。

参考: 2008年3月1日(土)〜3月14日(金)10:00〜20:00(期間中無休)横浜ZAIMで開催する若手現代美術作家10人による同時開催個展「POST 次の時代と遊びませんか?」

ごちそうになったので、その場では「他の作品からは感じられない温かみを感じた」といった感想を述べたが、四年間も、それも東京藝大で、それも油絵科壁画専攻で、……それで卒業制作が鍋ですか? という感じもした。(正確にいうと全国の美大を巡って鍋を作るのが卒業制作らしい)

(といっても別に批判するつもりはない。先に「芸術的」な話をしておくと、この方はやさしそうな風貌で、小沢剛を髣髴とさせ、作品自体も、確か小沢剛は野菜で銃を作って写真に撮り、それを鍋にして食う、というのを制作していたが、それを思い起こさせるような人への優しさが感じられ、好感が持てた)

ただ、油絵科の卒業制作で鍋が出てくると予想していない人の中には、「おかしな人だ、これのどこが芸術なの?」で終わってしまった人もいたかもしれない。もし、そういう反応があったとしたら、結果として、この作品はトンガリすぎというか考えすぎだったといえるかもしれない。

「学ぶはマネぶ」という言葉があるが、専門的な美術教育を受けるのは「真似ぶ」のとどう違うのか。そこらへんがハッキリしてないと、なんとなく他の人と似てるような、違うような凡庸なアウトプットしか出てこなかったりするのではないだろうか。(かえってそういうののほうが売れて成功するのかもしれないけど)

芸術家で、本当にデタラメで滅茶苦茶なことをやってる作品、見てびっくりするような作品作ってる人って滅多にみないような気がする。そういうのは理解されないからなかなか有名になりにくいのだろうか。(まあ俺も、変なのを見てもナンジャコリャで終了だから期待した範囲内のモノしか見ようとしてないのかもしれないけど)