「こういうことを言う人は作品を見るということをよくわかってない」

……と書いていて思い出したのだが、ex-chamber museum の幕内政治さんが、彼のレビューを読んでいる人からよく「見に行けなかったけど、幕内さんのブログを見ているので助かっている」と言われるそうだ。こういうことを言う人は作品を見るということをよくわかってない。

The World According to Kengo:「良かった」と思った作品のどこが良かったかを説明するのは難しい

俺はもともと、「アート」にはほとんど全くといっていいほど興味がなかったのだが、いろんな偶然が重なって少しずつ研究するようになり今日に至ってるんだけど、その「アートに興味を持つようになった理由」のひとつに「見ること」の意味を知りたい、ってのがあって。

例えば、過去十年〜二十年くらいの情報技術ってのは、リアルの世界に存在するものをデジタル化してデータにすることで色々便利な世の中にして行こう、って流れがあったと思うんだけど、そこでは「リアル」の物体とデジタル化した「データ」は、当然別物なんだけど、その一方で、同一のモノとして扱うことができる側面もある、という前提でいろんなデータが作られているわけだ。

例えば、デジタルアーカイブとかいって、昔の美術作品をスキャンしてデータとして保存してハイビジョンテレビで見せるとか、よく美術館に置いてあったりするけど、そういうシステムを企画して作ってる人たちは、スキャンしたデータを画面で見ることに「意味がある」と思ってる人たち、なんだと思う。(たぶん)

まあ、古い絵だと、崩壊してなくなっちゃう恐れがあるのでデータだけでも無いよりマシって考え方もあるんだろうけど。

で、ここで唐突にあるかたのtwitterでの発言を引用させてもらうけど、以前、eigokunがこんなことを言っていた。

絵の具の厚みで表現している時点で、絵としては失格だ。印刷されても劣化しない絵が、正しい絵だ。

eigokun on Twitter: "絵の具の厚みで表現している時点で、絵としては失格だ。印刷されても劣化しない絵が、正しい絵だ。"

直感的に言えば、これは(eigokunらしい)少し違和感を感じる考え方だと思う。実際にこんな反論があった→ http://twitter.com/VoQn/statuses/434624962

ただ、じっくりよく考えてみると、これはそんな簡単に否定して終わることのできない、意外と奥深い考え方であるようにも思えてくる。

例えば、ここに平面の「絵」があったとして、それは物理的な存在であると同時に、大勢の人たちのあいだで「評判」として抽象的に存在しているモノだ、といういいかたもできるであろうから。(こういう話、哲学に詳しい人は専門用語駆使してもっとかっこよく説明できるんだろうなぁ)

よく、西洋の偉い人が描いた絵なんかだと、日本では「画集でしか見たことがない」人がいたりする。(つまり画集として「印刷」されても「劣化しない」で価値を持つということ(金銭的な価値も含めて))

例えば「フェルメール全点制覇」とかいう言葉があるのは裏返していうと「制覇して無い人」は、見たことないのに「わかったつもりになっている」ということではないだろうか。(実物見る前から、それがいい絵だと知っているから見に行くんでしょ)

確かに俺もフェルメール作品が全点載ってる本は持っているが実際に全部見たわけでは無い。

では、この文脈で、逆に「印刷して劣化する絵」というのはどういう絵なんだろうか?

……と、考えを進めていくと、なんだかモヤモヤしてきて、まるで「印刷して劣化する絵は『正しくない』絵」なのかと思えてくるが、別にそんなことはないだろうと思う。(印刷して劣化する絵は、よくみると印刷する前から劣化してるんだろうなぁ(見る人の心の中で))

最初の話題に戻ると、俺はそんなわけで、「パソコンの画面だけで絵を見てわかったつもり」になることは、俺にとって「見ること」の意味を考える助けにもならないし、あまり意味が無いことだったりする。

なので、幕内さんのブログを見て「見にいけなかったものが見れて助かっている」と思ったことは一度もない。(実際に見たい、と思うものを画像だけで見てもあんまり意味ないんで。全く意味ないわけではないけど)

そのかわり、全然行くつもりのなかった展覧会の画像を幕内さんのブログで見て、これは面白そうだな、実際行って見たらどんな感じになるんだろう、と思って見に行くことは、しょっちゅうあるのでとても助かっている。(幕内さん、いつもありがとう!!!)

画像で見て面白い展覧会は、ほとんどの場合、実際に見ても面白い。

ただ、感じ方はかなり違う場合が多い。

画像で見てパソコンの前で盛り上がって、行ってみるとあまり面白く無い場合もある。