足あとを「挨拶」に - mixi改善試案

j0hn2006-03-21


いまさらながら、「mixiをアクセスログに使う」や「MIXIを使った、トラフィックの個人追跡システム」、そして、「mixiは史上最悪の危険サイトでは?」などで言及されている問題について。

この問題は、複数の要因で成り立っている。それらを全部ごちゃまぜにして論じると話がわかりにくくなってしまう。

外部サイトへのアクセスとmixiの足跡がひも付けされる問題

これは、mixiの足あと機能にちょっとした改造を加えれば防げる問題だと思う。

具体的には、まず、「足あと」の付いた時刻を記録するのをやめて日付だけを記録するようにする。

さらに、「今日の足あと」の公表を明日にする。例えば、今、足あとページを開くと、「3月21日(集計中)」とか表示されて、今日のぶんの足あとは明日の朝以降(時刻抜きで)表示される、といった仕様にする。

これでひも付けは難しくなるはずだ。

(追記: こちらでも別の対策を考えてみた)

mixiの会員に「クリック詐欺」「恐喝」などを働く不埒者がまぎれこむ

上記の足あと・アクセスログひも付け問題と、それが悪用されるのとは、全くの別問題だ。

たとえばの話、mixi ミクシィ先輩後輩大先輩 第二話に登場するような女の子を騙って、男をどこかに誘い込み、なんらかの犯罪に巻き込む、というのは、可能性を考えれば、決して不可能ではないだろう。

この問題はかなり古くから認識されていて、そろそろなんらかの解決策が出てきてもよさそうだが、少なくともmixi内には、その工夫は全く見当たらないし、そもそも工夫しようという意欲も(俺には)感じられない。

身元を騙る問題については、クレジットカード認証(もしくは、なんらかの形でリアルで対面して認証することで)「miximixi」を作るしかない。しっかりしたシステムを作りこんで「安心」を売れれば収益の柱になるかもしれないが、恐らく現状のmixiでは実現は難しいだろう。

足あと自体が気持ち悪い

気のせいかもしれないが、足あと危険論(と、それへの共感)の背後には、「そもそも足あと機能自体が気持ち悪いんだ」という嫌悪感があるように思われる。

「知らない人の足跡がいっぱいついているのを見て泣き出してしまった」という話をどこかで見かけたことがある。(今ちょっと調べてみたんだけど、ソース行方不明)

「足あとがついているのに足あと帳にメッセージがない人を見ると不愉快になります」と、プロフィールに書いている人もいた。

これは、読んでいるこっちが非常に不愉快になって、気のきいた挨拶を考えるのにかなり苦労したんだけど、不愉快だっていうから、仕方なく挨拶してやって、それ以来、用事のない人のページは絶対見ないことにしている。

ただまあ、「足あとだけ」が不愉快だと感じる人がいる、というのは理解できる。そこで、「挨拶ボタン」を設けて、ワンプッシュで挨拶できるように設計するというのはどうだろう。ボタンを押すと、挨拶が一言登録されて、それが相手の足あと帳に残る。

挨拶ボタンに俺認証機能を加える

ここで、「挨拶ボタン」を押したときのアクションは、「....mixi.jp/greet.pl?to=[aiteno_id]」といった感じのURLになるだろうが、そこになんらかのランダムな文字列を加えて「....mixi.jp/greet.pl?to=[aiteno_id]&auth=[random_str]」のようにして、random_strを事前にmixi側のDBに入れといて照合することにする。

(DBに入れたrandom_strをhiddenでmixiから送ってやり、submitされたのを受け取って照合するという意味)

そうすると、IMGタグでアクセスログとひも付けようとしても、[random_str]は、外部サイトには見えないので、挨拶ボタンを押したのが「俺」であることを確実に保証できることになる。

さらに、自分のページには「逆足あと帳」を設けて、いろんなひとにした挨拶を確認できるようにしておけば、ひも付け問題への抑止にもなり、一石二鳥ではないだろうか。

「こいつには挨拶を送ってないが、ボタンを押し忘れたんだっけ? でもこんな時間にこんな名前の奴見た覚えないしな」とかいって発見が容易になると思う。

押し忘れだったら、あとで押せばいい。足あと公開が翌日であれば時間的余裕ができるので安心だ。

いっそのこと、足あとという用語もやめて、全部「挨拶」ということにするのはどうだろう。山道ですれ違う人が挨拶するように、うざいくらい挨拶してやれば少しは雰囲気が良くなるんではないだろうか。(挨拶奨励ってことで右傾化する我が国の世論にも合致するだろう)

どうだろうか?

そもそも足あとなんていうから、踏みつけられて人格を否定されるように感じる人が出てくるのでないだろうか。

(追記: こちらでは、この手法について、さらに考察している)