松井冬子藝大卒業!! 東京藝術大学卒業・修了作品展

正確に言うと、松井さんは大学院の博士課程に在籍されていたらしいので、卒業というより「修了」なんだと思うけど。

藝大の博士課程ってのは、博論書くんだろうか? と理系の俺は気になったんだけど、以下のように、論文も書いてらっしゃる様子。

先日、東京藝大で話題の日本画松井冬子さんの博士論文発表を聞かせていただきました。そういうところに一般人が入れるとは知りませんでしたので、初めての体験です。松井さんのミステリアスな作品の裏にある意識を垣間見ることができました。

“ときの忘れもの”今週のオークション 2007.02.17 : ギャラリー ときの忘れもの

すごく読んでみたいんだけど、どうすれば読めるんだろう。

……というわけで、今度の月曜までやってる藝大卒業・修了作品展をみにいってきた。

なんだかんだいって、やっぱり松井さんの絵はすごいなーと思ってしまった。

松井冬子さんというと、安積桂さんというかたがご自身のブログでお書きになった松井冬子評に対して、ある方が、かなりものすごい勢いで批判されたという、(ブロゴスフィアではほとんど全くといってよいほど誰からも注目されなかった) 事件が思い起こされる。

……なぜ意味不明なキャプションをつけるのだろう。そうすれば深遠な意味がうまれるのだろうか。分からない。
 これは松井冬子の戦略なのだろうか。しかし、分からないのはタイトルだけではない。以下、松井冬子の「作者の言葉」を二つあげておく。日本語が変である。

繰り返される受動による激しい苦痛の持続、

また、内部に向けられた崩壊の予兆と破壊衝動、

それらが形象化された絵画が見たいのです。

例えば、男性へのコンプレクスから女が自らの肉体を裂き、

立派なミュラー氏管を見せびらかしている、

そのような絵によって指し示したいのです。

(中略)……分かりましたか。まったく無意味だとはいわないけれど、やっぱり、分からないでしょう。
 ちなみにミュラー氏管とはヤフーの知恵袋によれば、「胎児期のミュラー氏管は将来的には生殖管つまり、卵管や子宮を形作る原基」だそうです。
 そんなもの見せびらかして、美人の松井冬子はどうしようというのだろう。不可解

ART TOUCH 絵画と映画と小説と

これに対し、id:smoocherさんが、以下のように指摘なさった。

数日前ホームページに記されている彼女の言葉というのに

つきあたって、動揺し、感動した。

それは、……(中略)

なんと痛々しく、勇敢で、思慮に満ちた言葉だろう。

どこかに私がもがき、抗い、苦痛を感じて生きてきた歴史的社会的状況と

戦ってきたに違いない2歳上の日本人女性がいて、

言葉ではなく絵画でそれを表現しようとしている

そのことだけに身震いを感じるほどだった。

(中略)

しかし、リンクするのも腹が立つようなこんなエントリがあった。

http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-64.html

こういうのを見ると、瞬時にして目に炎が灯ってしまう。

まったくそういった葛藤を理解する必要のない、

男性としての立場がどのぐらいの特権を持っているか

ということを考えもしない輩が偉そうに、

http://d.hatena.ne.jp/smoocher/20061212/1165941201

これは非常に微妙な問題で、軽々に論じるべきではないのかもしれないが。

まず、文章の意味はわかる。日本語としておかしいかというと、おれ自身はそれほど違和感は感じない(が、俺の日本語も変だからね)

強いて言えば、文末の「指し示したい」の部分が、「なにを指し示したいのか」が不明確になっていると感じられる場合もあるだろうが、おそらく、苦痛の持続、崩壊の予兆と破壊衝動を指し示すってことなのではないかと。(ただ、予兆、持続、衝動ってのが「指し示すことができるもの」なのかは「?」だが)

ただ、id:smoocher さんが感じられたような激しさは絵からは感じられない。言葉から受ける印象と絵を見て感じる印象はかなり違う。(でも文章には、そういう絵画が「見たい」としか書いてないけどね)

松井冬子の絵は去年は、東京都現代美術館横浜美術館、あと、佐藤美術館ってとこでもみたし、今回の藝大美術館の絵もそうだけど、どれからも、「激しい苦痛」のようなものは感じられなかった。

「いやあー静謐な感じがするかもしれませんが体が引き裂かれてるってのは激しい苦痛と破壊衝動を意味しているわけですよー」みたいな感じだろうか。(まじで博論がよんでみたい)

とにかく今回、藝大美術館で見た松井さんの絵はとても大きくて立派で、どこか貴婦人っぽくも見える麗しさが感じられた。実際の絵を見ずに、文章とパソコンの画像だけで絵を判断すると、あとで実物見たときに印象が違って愕然とする、ってことがよくあるので、絵を見たことがない人は要注意だと思った。

いずれにしても、絵から受ける印象が圧倒的で、思わず日本画科卒制作品集を買ってしまった。(ふだん、こういうのの作品集は買わないんだけど) そういうパワーは松井さんの作品からは物凄く感じられる。

以上、松井冬子の話、終わり。

ほかの作品も、どれもよかった。特に面白かったのが、彫刻棟の三階の彫刻科大学院のかたの作品。すべての作品がもれなく面白かった。彫刻はあまり興味がなくて展覧会も見に行ったことないんだけど、こういう日本の若手彫刻家の展覧会ってのも、どっかでやってるんだろうか? どの彫刻もよかったが、特に武末裕子さんというかたの作品はすばらしかった。こんなん、無料で見ちゃってもいいの? ってくらい印象深かった。

あと、こんなこと書いていいのかわからないけど、(ていうか、書いちゃいけないような気がするけど書いちゃう)

絵画棟という建物のエレベーターのなかに、張り紙がしてあって、「金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか」という本が欲しい人は、特別なやり方で注文すると割引価格で買えるらしい。という告知があった。(詳細は行って見てみて下さい。常識的に考えて藝大関係者限定だと思うが)

追記: ネットでも同じ情報が公開されてるようだ。→ 金と芸術

金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか

金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか

しかしこの本、なぜ「アーティストが貧乏なのか」ってのは、3,500円も出して544ページも読まないとわからない話なんだろうか? 貧乏なのは金がないからで、金がないのはなぜか考えれば話は終わりのような気がするが。

と、思ってちょっと調べてみたところ、この原書のレビュー欄に色々書いてあって、斜め読みしてみた感じだと、要はアーティストはある意味聖なる存在であり、その聖性ゆえに、売り手も買い手も取引を「商売」だと考えたがらない。

芸術の世界でのお金の流れは「ギフト」であり、ギフトといっても寄付ということではなく、家族間の援助のような形をとっており、場合によっては、アーティスト自身が別の仕事を持って自分の作品制作を自分で援助する場合もあったりする。

アーティストはお金ができると仕事を辞めて制作に集中しようとするので貧乏なまま。アートコミュニティも、そういう現状について新規参入アーティストにinformしようとしないので、貧乏なアーティストが増える一方。

みたいな話らしい。これだけだと、やっぱり、買って読むほどの本なのか? という気もするが、ちょっと面白そうな気もする。明日の朝日新聞に書評が出るらしい。

少なくとも、松井冬子はこういう困った状況からは脱却しつつあるんじゃないだろうか。ただ、それが拙速にすぎると、聖性を失ってしまうという可能性は確かにあるような気がした。

第55回東京藝術大学卒業・修了作品展
会場: 東京藝術大学大学美術館
スケジュール: 2007年02月21日 〜 2007年02月26日
住所: 〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8
電話: 03-5685-7755