科学技術と現代美術の相似形

「科学離れ」という言葉がある。(理科離れともいわれる)

一般大衆の科学に対する関心が薄れて、それによって様々な問題が起こってくる、という話だ。

たとえば、一般の人が根拠の無い疑似科学のようなものにだまされたり、若者が科学に興味をなくすことで、日本を支える科学技術の将来を担う人材が枯渇するかも、といった問題が指摘されている。

そういう問題が起こると困るので、大衆の科学に対する理解を深めてもらおうと、様々な啓蒙活動がおこなわれたりしている。

いかにも科学に興味のない人たちが読みそうな雑誌(? という意図だと推測するが) Tokyo Walkerに、啓蒙情報誌「Science Walker」を付録でつけてみたり

俺は、この問題については、こう考えている。

昔は科学技術はかっこよかった。夢であり、希望であった。敗戦から日本が立ち直る過程で必要とされた「金のなる木」でもあったかもしれない。

だから、啓蒙なんかしなくても、みんな関心を持って集まってきたのだ。

それが、途中で雲行きがかわってきた。

鉄腕アトムは当面実現しないらしい、ということがわかってきた。

空飛ぶ自動車も、そう簡単には実現しないみたいだね、というかむしろ、そんなもの実現したら危なっかしくて道を歩けないよね、といった流れになる。科学は夢でも希望でもなくなった。

科学技術は自動車事故、公害を引き起こし、原子力発電所放射性廃棄物をどうするつもりなのか? という問題が論じられるようになった。

要するに科学技術は、夢や希望といった前向きなエネルギーを失って、ネガティブな後ろ向きのエネルギーを持つようになったのだ。

そこまではまだいい。問題は「人」である。

その象徴が、広瀬隆だ。広瀬隆原発反対派の作家で、朝まで生テレビで有名になった人。80年代末、「広瀬隆現象」といわれるほど話題になった。

広瀬隆については、色々言われているようだけど、個人的にはどうでもよい。俺は重要な問題提起をした勇気のある人だと思ってる。

問題なのはキャラクターだ。これがうまくなかった。「欠点をあげつらってねちねち攻撃する人」というキャラクター。(もちろん、話の流れ的に、そういうキャラを演じざるを得なかったわけだが)

要は、科学技術は「反対派」がねちねち研究して反対運動の論拠をさがすリファレンス元、という感じになってしまった。究極の後ろ向きさ加減だ。科学を好むのは、広瀬隆以降、「その同類」というイメージになってしまった。(あえて断言)

俺が言いたいのは「夢のあるものには夢のある前向きの人が集まる」「ネガティブで後ろ向き、ねちねちしたものには、そういう人が集まる」という傾向があるのではないか、ということだ。

最近話題になった「あなたの身近にいるパソコンにとても詳しい人について、その人のイヤなところをお聞かせください。」でも、似たような現象が明らかになっている。

要するに、「パソコン好き」の人(の少なくとも一部)は、「そういう人」たちである、ということ。これは「パソコン」のハードウエア自体がそういうオーラを発していたということだ。

ついでにいうと、「パソコン好きの気味の悪い人」をつかまえて、あれこれ質問して無料の質問箱として利用してやろう、という根性の人、っていう、一定の傾向を持った人が、パソコン好きにむらがる傾向がある、ということも、同時にいえるだろう。

これは、ありとあらゆる事物に敷衍して考えることができる。典型例は服、靴、ヘアスタイル、よくいく飲食店などだ。

現代美術もそう。「現代美術は難解だから敬遠されがちだ」といわれることがあるけど、それは違う。

知恵の輪と一緒で「難解だから好き」という人もいればそうでないひともいる。

問題なのは「難解だから好き」という理由で集まってくる人たちがどんなオーラを放っているか、ということ。

たとえば、このエントリーのコメント欄に集結してる人

特権階級(貴族とか学者とか)は学習というオブリージュがあって、そのオブリージュを背負う気概なしに作品の価値を100%味わいたいとか、ワガママ、と私は思う。

あなたは貴族? それとも学者? それとも貴族気取り? 貴族もどき? みたいな。

芸術家がつくる一見わけのわからんものを一般人が「オオ!」というような権力構造を作ることが研究家なのではとか思っています。がんばって軍事費並の国家予算を獲得してください

(一般人と研究家が、権力構造を通してどういう位置関係にあると考えているか)

つまりこの現代の社会秩序の上で芸術は何に奉仕しうるのかという。昨今のにぎわってる勝ち組や上流やセレブに奉仕しうるのか、下流や負け組みに奉仕するのか、

ちなみにこのエントリーを書いた当人は、俺のかいたのを読んでこんなコメントを書いた。

今回の展覧会を「理解」して書いた文章」ではないです未見ですし。ただ石原発言のようなものを素朴に支持する人が多いと感じたので、もう少し考えたほうが文化の幅が出て結果的にハッピーじゃ、というお話でした。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/j0hn/20060523/1148335950

みてもいない、りかいもしていない展覧会についての話で「素朴に支持」とか「もう少し考えたほうが」とか平気で書ける人。

たとえばこのエントリー

さすがフランス。金ではなく審美眼を持つものが一流の文化人。日本経団連のみなさん!見習いましょうね。

審美眼をもった一流の文化人でなければ書けないこのセリフ。

(ちなみにトニー・アウスラーの目玉について「目玉より、もれ出た光が金環食みたいで」とかかいてるけど、この作品、南米のなんとかいう部族をテーマにした作品らしいんだけど、そういうのすっとばしちゃっていいもんなんだろうか)

もし、本当に「現代美術が敬遠されている」のであれば、その理由はおそらく「難解だから」ではない、んじゃないかなと。