本城直季氏独自の世界観
実在の風景をミニチュアのように撮す独自の撮影スタイルで人気を博し……
http://em.m-out.com/ec/html/item/001/002/item1230.html
なるほどなるほど、「実在の風景をミニチュアのようにうつす」ってのは、彼独自の撮影スタイルなわけですね。
その独自性が評価された結果として、この作品は42万円の価値を持つんですよ、ってことですかね。
そういった(上記のパクリとか一発芸とか)雑音にかき消されて、
彼の写真の背後に滞留する無意識がまったく語られていないのは、
写真言語が衰弱したこの時代を象徴しているともいえる。以上引用終
「背後に滞留する無意識」
この言葉が何とも響いた。
この滞留する無意識を感じ取れなければ、
アナログなWEBアカウントプランナー:背後に滞留する無意識
恐らくそれは偏見につながっていくのだし、
その人の今をつくる過去(や今からつくる未来)を理解せずして
その現様相だけ捉えるのは表面しか見ることが出きていないと
いうことだと思う。
その「背後に滞留する無意識」ってのは、たとえば、「実在の風景をミニチュアのようにうつすのが本城独自の撮影スタイルだなんて、俺はひとこともいってねえんだよ。勝手な思い込みで42万払ったやつがそう思ったとしたって、俺は知らん」みたいなやつのことですかね? (口に出してはいえない潜在意識 = 無意識)
どんなんなんだろーその無意識ってやつ。詳しい説明が全くないので気になる。
(追記: 気になったので本屋で立ち読みしてみたが、「箱庭療法的幼児退行」がどうのこうの、と書いてあった。あれってほめているんだろうか? 箱庭療法的ってのと箱庭的ってのは全然違うと思うけど)
これって「無意識が語られないのは時代の象徴」とかいっておけば、「無意識」の説明を求められることもないので(無意識だから言語化できないし説明もできない。あれ、ほんとにそんなもの存在するのかな?) 自分は安全地帯にいてえらそうなことを語れてしまう(つもりになれる)手法の典型例ですね。
程度の低いやつはここで、「本質が語られないのは……」とか書いて、さも自分は本質が理解できているんだけど、せけんは(もしくは特定の誰かは)本質を理解できない、みたいなふうを装おうとして「で、その本質ってのは一体何なんですか?」 と聞かれて答えに窮して馬脚を現す、ってパターンもあるらしいけど、そこを「無意識」に置き換えておけば、説明する必要がないっていう、まあ、山田君、座布団一枚って感じですな。(こんなせこい手法にだまされて感心するやつも珍しいとは思うけど)
この人の撮影手法の話、最初に見たのは、いつも(楽しく)拝見している、ある、はてなーさんの日記で、であったのだが、参考リンクを紹介して迷惑かける恐れもあるのであえて紹介しないことにする。(んなもん気にしねーって場合はトラックバックでもいただければと。)
関係ないけど、俺がこういうミニチュア風写真を最初に見たのは、日経新聞の一面広告で、確か御茶ノ水駅がミニチュアになってたやつだった。どっかのSIerかなんかの広告だったような。二年位前かな。