茂木さんの美術解剖学『批評はいつ美になるのか』を聞いてみた。
茂木健一郎 東京芸術大学美術解剖学講義 『批評はいつ美になるのか』 を聞いてみた。
とても面白かったので、講義の一部を(勝手に)要約。
逐語的な記録ではなく、俺の解釈で書いてるので若干ニュアンスの違うところもあるかも。
レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知について。
「美というのはアカデミズムの一部」であり「アカデミズムの最高の表現形態」。「知を集積したのが受胎告知」である。
ダヴィンチは自然物と人工物を同じように描いている。機械の発明などを通して得た科学的な知見から、生命は「機械」である、と考え同一に描いている。その他奥行きの描き方など全てが「知の集積」になっている。
夏目漱石は東京藝術大学の前身、東京美術学校で「文芸の哲学的基礎」という講演を行った。藝大では「本を読む暇があったら手を動かして作品を作れ」といっている人がいるらしい。しかし「論文書くわけではないが世界のことを知っていないと歴史に残るような作品を作れない」のではないか。
千利休の話。豊臣秀吉は現在では考えられないほどの絶対権力者(秀吉が法律)である。その秀吉の金ぴか趣味に対する「批評」が「美」になってるのが利休の侘び茶。命がけで秀吉の金ぴかを全否定した批評になっていると。
批評といっても、そこらへんのオッサンが何か文句を言っても「場の空気が寒くなるだけ」利休の侘び茶のように批評が美に高められているのがすばらしい作品。
ここで、「批評と美」の関係を「批評と笑い」に置き換えて考える。
松本人志の笑いは批評だ。例えば野球についてのコント。「野球は長い」「一回の表裏だけでいい」「ホームランだとわかったら全部のベースを回る必要ない」
コメディはあくまで笑いが目的だが、前提として世界のいろんなことを知り、それを批評し笑いにつなげることで、(……なんだろう? そういう笑いが上質だ、って話かな?)
「本物の美は何かが隠蔽されて成立している」「本物の美は起源が隠蔽されている」
- 骨董はうさんくさいと思っていたが、あれはレディメイドなんだと気付いた
- 茶道というと公民館の茶道教室でおじさん・おばさんがやっているような手垢のついたもの(のような感じがするが)
- 大衆的な人気があるものはつまらないと感じてしまいがちだが、力を持っているものの背後にはなにかがあるのではないか
高橋由一の「豆腐」 この絵の背後にも何かが隠蔽されているような気がする
……というような話。以下、俺が考えたこと。
お笑いと美の対比というのは興味深い。
美と同じで、「笑い」ってのも、「誰でも知ってるもの、感じるもの」だけど、じゃあ「笑うとはどういうことか」というのを説明するのは難しい。
昔、どこで読んだか忘れたけど、人工知能かなんかの話で、笑いの実装は難しい、みたいな話を読んだ気がする。そもそも笑うというのはどういうことだろうか、みたいな。
例えば、ミスター・ビーンの笑いは「知の集積・批評」を背景に持つだろうか? 俺の印象を言うと、ミスター・ビーンの笑いは老若男女の違い、文化や歴史などを抜きにして成立するもので、世界の知とは無縁で、隠蔽された批評があるわけでもないような気がする。(どうだろう?)
(美術館の絵を見て「この額縁は凄い」とかいうのは批評なのかもしれないけど)
茂木さんの講義のなかで一瞬、村上隆の「幼稚力」の話が出てくるけど、世界の知とは無縁な、人間の内面に根ざした笑い・美ってのもあるんじゃないだろうか。(ないのかなあ? よく考えると)
あと、ちょっと話がずれるけど、あるジョークを聞いて、笑えなかったからといって、そのジョークの説明を聞くのはさらにつまらないし、しらけることだ。
ここで例えばそのジョークが政治ネタ(政治家を揶揄したようなもの)だったらどうだろうか。笑えないのは聞いてる観客の政治に関する知識(=政治に対する意識)が足りないせいだろうか、それとも、コメディアンの能力不足だろうか。
ここで、自分の能力不足を棚に上げて「そんなことも知らないのか」と客を見下す笑えないコメディアンがいたら、どうだろう。
さらに「このお笑いが理解できるのが一流」などと、そういうつまらない『お笑い』が人を見下す装置になっていたらどうだろうか。
気味悪いよなあ、そういうお笑い。