VOCA展・上野の森美術館

いろんな方のブログでの言及を拝見してると、いまいちパッとしない印象で、別に行かなくてもいいか、という気分でもあったのだが、「あの」山内崇嗣(やまうちたかし)の作品が見られるということで、行ってきた。

俺が初めて山内崇嗣の作品を見たのは、2006年のオペラシティで、そのときはふーんって感じで通り過ぎたんだけど、確か、その少しあとに、いつも楽しく読ませてもらっている id:kachifu さんのはてダで、山内さんへの言及があって、「あー、こないだ見たなー」と印象に残ったのであった。

その後、今年に入って、 id:kachifuさんが 山内崇嗣の個展の告知をされていて、(ちなみにid:kachifuさん(末永史尚さん)といえば、美術手帖の今月号(3月号)の表紙に作品がのってる画家である)近いしちょっくら行ってみようか、ってことで行ってみてきて、その時はポスター(700円)を購入した。

確か、その二三日後だったと思うんだけど、ちょっと驚いたのが、はてなブックマークの「注目の動画」経由で「革命的オリーブ少女主義者」ってビデオを見てたら、そこにヘンなコメントをしてる人がいて。

で、その人のユーザー名が "omolocom" といって、コレどっかでみたなあ、どこだっけ、と思って良く考えたら、山内崇嗣のウェブサイト「omolo.com」と非常に似ている、ということに気づいた、という出来事があった。

単に似ているだけではなく、この "omolocom" なるユーザーが登録している映像一覧を見ると、これはどうみても山内崇嗣本人、もしくは彼に非常に近い関係者だとしか思えない。

例えばこんな映像を登録している。

(リェストゥール・キエロフスキというキュレーター(何人??)が企画した2004年のグループ展らしい)

で、そんな「出会い」(?)があった後、山内崇嗣のウェブサイトをみたところ、こんなことが書いてあって

VOCA展ですが、会場の物販にて、現在その会場でしか扱っていない
A1のポスター 700円
わくわくパック(Tシャツ、サイン付きシルクスクリーン、など)5000円
が売っています。今のところ、そこでしか売る予定がないので是非とも買ってください!売れてくれないと、困るんです!!

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ほいじゃあ、ちょっくら見にいってくるかな、ということで行って見てきた。

今回の山内崇嗣の作品は、いままでにない大きな作品で、例によって「冬芽ちゃん」が描かれている。

参考: @nifty:デイリーポータルZ:かわいい枝? 冬芽ちゃんって何さ

今回、山内崇嗣VOCA展に推薦したのは蔵屋美香さん(東京国立近代美術館主任研究官)らしいが、蔵屋さんが図録に書いてる解説文が非常にわかりやすくて面白かったので、出品作品について詳しく知りたい方はそれを見てください。

で、折角なんで「わくわくパック」も買ってみた。

Tシャツ。

iPodファミコンのコントローラー(但し紙製)

シルクスクリーン

オペラシティの展示の紙にヘンな絵とサインが入った限定品。

肩たたき券w

結構手間がかかっていて、実はあんまり儲かってないような気がする。

今回のVOCA展に来た人の中には、今回はじめて山内崇嗣の作品を見る人も多いと思うが、そういう人たちのうち、絵を見てただけで、これがなにを描いた絵なのか、わかる人ってどれくらいいるんだろう。

よく、「絵を鑑賞するには知識がないといけない。歴史とか色々勉強しないといけない」みたいなことを言う人がいて、俺は別にどっちでもいいんじゃないか? と思ってたんだけど、(つまり感覚的に見たければそうすればいいし、みたいな) さすがに全く前提知識のないところで一枚だけパッと見てもわかることは少ないよなあ、と最近は思うようになってきた。

今回のVOCA展では、他にも、巨大な焼き芋のような絵や、こりゃどこ撮ってるんだろ、って感じの地下街の一隅を撮影した写真(……と思わせてベクターで描いたイラストを出力したもの)など、面白い作品がいくつかあったが、やっぱり「もっと他に、色々作品みてみたいなあ」と思った。

東京駅が崩壊してる作品を出品している元田久治の作品は、以前別のを見たことがあったが、(確かBankART) 今回の作品をひとつ見て、他にどういうのを描いてるか想像できる人は少ないと思う。(BankARTでみたのはかなり迫力があった)

その点、山内崇嗣は、Flickrという、ネットに親しんでいる人たちにとっては非常に身近なツールを使って、自身の作品画像を公開しており非常に好感が持てる。

(さらに画像のライセンスがCreative CommonsBY 2.0になっている。このライセンスでは権利者名をきちんと表記すれば、商利用も可能なはず)

クリエイティブ・コモンズになってれば、Tumblr.にも気兼ねなく登録できるし、いいんじゃないでしょうか、こういうの。

なんか絵のモデルを募集してるみたいだけど応募してみようかな〜 ボンクラで年齢不詳ってのがあてはまってるし。

VOCA展の話のつもりがほとんど山内崇嗣の話になってしまった。

VOCA展 2008
会場: 上野の森美術館
スケジュール: 2008年03月14日 〜 2008年03月30日
金曜日のみ19:00閉館。会期中無休
住所: 〒110-0007 東京都台東区上野公園1−2
電話: 03-3833-4191



同時開催の加藤泉展もお見逃しなく

加藤泉 「The Riverhead」
会場: 上野の森美術館
スケジュール: 2008年03月14日 〜 2008年03月30日
住所: 〒110-0007 東京都台東区上野公園1−2
電話: 03-3833-4191

Better Living and Other Projects展・カナダ大使館・高円宮記念ギャラリー

カナダで活躍中の日本人アーティスト、秋元しのぶの個展。

会場は青山、カナダ大使館内のギャラリー。月曜から金曜までしか開いてなくて行きにくいのがちょっと残念。(月曜休みで土曜オープンだといいんだけど)

展示されているのは、とってもかわいらしい作品。ウサギと鳥と猫がショッピングにお出かけ。おしゃれなお店で食器、鉢植えなどを品定めしてる様子を撮影した写真。

会場の様子は こんな感じ (←このページはShinobu Akimotoさんの公式サイトのトップページからは、「a. visual artist」→「CV」→「exhibitions and off-site projects」→ 2006「Shinobu Akimoto - New Projects」をクリックしていくと見ることができる)

手前の立体作品は、写真に写っている食器、鉢植えなど。ミニチュアサイズでとてもかわいらしい。

ほかにも、ワンちゃんの面白グッズの作品や、フリーペーパーに掲載されたウサギ愛護団体の三行広告 (The House Rabbit Society Project Series) など。(←これには「あなたのウサギは幸せですか? 地下室やガレージにカゴを置いたりしてませんか?」 と書いてある。こういうのがこんなふうにたくさん展示されている)

かわいらしい癒し系アート……かと思いきや、入り口の解説文にはこんなふうに書いてある。

……特に最近の私のプロジェクトの多くは、美術制作という概念が、私たちの日常生活における他のいろいろな「創造」活動とどういう折り合いで存在するかという問い、もしくはただ単に私が「どうやって生活するか」と「どうやってアートを作るか」ということの共生的な関係のことばかり考えていることを反映しているようです。

(……中略) その結果私のプロジェクトはしばしば、アート、またはアーチストというアイデンティティーを認証するために良く使われる「創造性」とか「芸術的権威」といった概念に対しての疑問を誘うことになります……

結構深い。猫ちゃんのお買い物、面白ワンちゃんグッズ(実際に販売されているもののコピー)、ウサギ愛護団体。確かに、ぞれぞれの作品を構成する要素に「創造性」があるのか? ……と言われるとよくわからない感じもしてくる。

……この問いは表面的には、マルセル・デュシャンやヨゼフ・ボイス、またはアラン・カプローといった数々の20世紀のアーチストによってすでに何度も追及された、「『芸術的(もしくは芸術家の)権威』という概念は作り物に過ぎない」というアバンギャルドの批評に似ているかもしれません。

けれども私は、ライフスタイルというものが個人の美的表現として浸透し、また物を創造するためのサービスやテクノロジーに簡単にアクセスできることによって、芸術的(アーティスティック)とか、創造的(クリエーティブ)というコンセプトが今までになく民主的になったように見える、今現在の、この時代と環境の中で、同じ問いを再構成することに意味があると感じています。

「ライフスタイルが個人の美的表現」……昔、クイズダービーっていう、テレビのクイズ番組があって、それに解答者として出演していた学習院大学篠沢教授が、トンチンカンな答えばかりして全問間違えると「美しい」、まぐれで一問だけ正解してしまうと「美しくない」と言っていたが、そういうやつのことだろうか?

あと、テクノロジーが「芸術的、創造的であること」に与えた影響ってのも興味深い。例えば単なる手芸のようなもの(最近では「オカンアート」と呼ばれるようなもの)は昔から存在したと思うけど、そういうのを、ある種の「民主的に選ばれた権威」のようなものに高める手助けをしているのがテレビやインターネットだったりするのだろうか。

……私の美術制作活動はある意味で、私自身の「アーチスト」というアイデンティティーに対する自己脅迫が存在する現代の状況への降伏であり、また同時に客観的な観察でもあると思っています。

やはり現代のプロの「アーティスト」は、とても厳しい状況に置かれているのだろうか。(俺のような気楽な見物人の立場からすると)難しく考えすぎているような気もするけど。

……こういった解説を読んでから改めて作品を見ると、また違った感じで楽しむことができる。なんというのかな、トゥルーマン・ショーっていう映画があるけど、あんな感じで「外側から人間社会を見ようとする」視線が感じられ、興味深い。

3月20日まで。17日(月曜)と、18日(火曜)は午後三時で閉館らしいので注意。

このページ↓にある超長いコメントも興味深い。

秋元しのぶ 展
会場: カナダ大使館B2ギャラリー
スケジュール: 2008年01月18日 〜 2008年03月20日
住所: 〒107-8503 東京都港区赤坂7-3-38
電話: 03-5412-6200

(ちなみに秋元しのぶの日本での個展はこれが初めて。グループ展では2004年に東京で展示があったらしい。美術手帖の2004年6月号 (特集が「フォトグラフィからデジグラフィへ」のやつ) にレビューが載っている)

これは誰でしょう

j0hn2008-03-02


この新聞記事、誰の記事でしょう(この写真→は関係ないです)

正解は片岡鶴太郎。(今朝の日経朝刊より引用)

今年は茶道だそうです。この調子だと、来年か、さ来年ぐらいにはろくろをまわして壷を作り始めそうな勢いですね。(で、その壷が驚くほど高かったりして)

もともと鶴太郎にはあまり興味がなかったんだけど、先日読んだ「アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人」で言及されていたおかげで最近、非常に気になっている。

この本では鶴太郎について、「過去と決別したかった男の焦心と小心」つまり、ぶざまで下品、「小太りでブサイクなお笑い芸人」であった過去を葬り、カッコよく生まれ変わって周囲を見返そうとして絵を描き始めたのではないか、と論じている。

これはちょっと意外だった。読み進めながら、最後は「モノマネとしてはよくできているが本物ではない」といった結論でしめるのかなーと思いつつ読んだから。

俺は「アーティスト」なる肩書きがカッコイイとは全く思っていないので、鶴太郎がカッコつけるために「画伯」になったのだろう、という発想もないし(実際大してかっこよくもないし) 鶴太郎に対しては、いきなりどうしちゃったんだろう、ぐらいの印象しかなかったので周囲を見返そうとした、というのもよくわからなかった。(だって、人から笑わるのが嫌なら最初からお笑い芸人なんかにならないでしょう?)

ま、それはいいんだけど、そこで色々考えたのは、「本当の独創性」っていうのは「頭がおかしい」ってことじゃないか、ってこと。

つまり逆にいうと、例えばここに、絵(や彫刻)を学ぶために美術大学で勉強してる人がいるとする。で、卒業して芸術家になったとする。

そこで社会からその人に求められているのは「期待通りの芸術家像」でしかないのではないか、ということ。より正確に言うと「期待以上のアウトプットを出すことを期待されている」というか。ただそこで求められているのはあくまで「想定の範囲内の意外性」でしかないのではないか、ということ。

鶴太郎は、いわゆる「画伯」という言葉から社会が期待する「画伯像」に非常に忠実にふるまっている。俺は鶴太郎の活動はよく知らないのだけど、このアーティスト症候群に書いてある鶴太郎の様子はそう。大野さん自身「型を真似るのが大変にうまい」と述べている。

本物の芸術家と鶴太郎はどこが違うのだろうか?

ちょっと話が変わるんだけど、今年、藝大の卒展を見にいったら、油絵科で豆乳モツ鍋を作ってふるまっている人がいた。葛谷さんという方で、(ごちそうさまでした) 今月の14日まで横浜ZAIMでも展示をされるとのこと。

参考: 2008年3月1日(土)〜3月14日(金)10:00〜20:00(期間中無休)横浜ZAIMで開催する若手現代美術作家10人による同時開催個展「POST 次の時代と遊びませんか?」

ごちそうになったので、その場では「他の作品からは感じられない温かみを感じた」といった感想を述べたが、四年間も、それも東京藝大で、それも油絵科壁画専攻で、……それで卒業制作が鍋ですか? という感じもした。(正確にいうと全国の美大を巡って鍋を作るのが卒業制作らしい)

(といっても別に批判するつもりはない。先に「芸術的」な話をしておくと、この方はやさしそうな風貌で、小沢剛を髣髴とさせ、作品自体も、確か小沢剛は野菜で銃を作って写真に撮り、それを鍋にして食う、というのを制作していたが、それを思い起こさせるような人への優しさが感じられ、好感が持てた)

ただ、油絵科の卒業制作で鍋が出てくると予想していない人の中には、「おかしな人だ、これのどこが芸術なの?」で終わってしまった人もいたかもしれない。もし、そういう反応があったとしたら、結果として、この作品はトンガリすぎというか考えすぎだったといえるかもしれない。

「学ぶはマネぶ」という言葉があるが、専門的な美術教育を受けるのは「真似ぶ」のとどう違うのか。そこらへんがハッキリしてないと、なんとなく他の人と似てるような、違うような凡庸なアウトプットしか出てこなかったりするのではないだろうか。(かえってそういうののほうが売れて成功するのかもしれないけど)

芸術家で、本当にデタラメで滅茶苦茶なことをやってる作品、見てびっくりするような作品作ってる人って滅多にみないような気がする。そういうのは理解されないからなかなか有名になりにくいのだろうか。(まあ俺も、変なのを見てもナンジャコリャで終了だから期待した範囲内のモノしか見ようとしてないのかもしれないけど)

アーティストとは何か 「アーティスト症候群 ― アートと職人、クリエイターと芸能人」大野左紀子

本の紹介の前に、先日読んだ、ある方のブログをご紹介。

カエラが私はアイドルなんかじゃないってどんなに叫んでも、どうがんばってもアーティスト気取りの勘違い電波にしかみえないように、フミヤートや米米のボーカルの人がアートだのいってるのが世間からは失笑を受けるような感じだったり。私たち美大生というのもそのような人たちと同じ、なにも変わらない。憧れるだの変わってるねーとか煽てられて泳がされている。4年間使って最高に気持ちのいいオナニーを探求するかその虚しさに気付こうと葛藤しているに過ぎない。

(追記: 全文はこちらで読めます→ http://voqn.tumblr.com/post/26565417)

http://reach.seesaa.net/article/83930117.html

美大生は「そのような人たち」と同じ、かもれしない。

では、卒業してプロの作家(美術家)になったらどうだろうか?

そしたらもう、「そのような人たち」とは違うんだよ!! ということになるのか。

それともプロになっても同じことで「虚しさに気づこうと葛藤しているに過ぎない」のか。

そこらへんを面白おかしく論じたのがこの本。

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

半分以上の紙数をさいて、ちまたにあふれる「アーティスト」をメッタ切り。音楽シーンの「アーティスト」にはじまり、藤井フミヤ石井竜也片岡鶴太郎ジュディ・オング工藤静香ら、「芸能人美術家」をバッサリ。

その他、たけしの誰でもピカソ、専門学校でとぐろを巻くクリエーター・ワナビー華道家、メイクアップ・アーティストなどなど、みだりに用いられがちな「アーティスト」について論じている。

ここまでで、だいたい全体の四分の三くらいかな。残りの四分の一くらいが面白い。

著者が大学を卒業してプロの作家(美術家)になり、そして、それを廃業するまでが語られている。

著者の大野さん (id:ohnosakiko さん) といえば、去年、はてなブックマークで、ちらほらおみかけし、モテとジェンダーの論客、「はてな村」で楽しそうにワイワイやってる方、ぐらいの認識しかなかったのだが。

本書を読んで初めて知ったのだが、東京芸大彫刻科を卒業し、プロの作家として20年以上のキャリアをもつ方であったのだ。

俺のブログを読んでくださってる方の中には、写真家、画家、(画家の卵) などの「アーティスト」のかたや、(非常に多くの)若手美術家の方達の活動を見続けている方もいらっしゃると思うが、そういった皆さんが本書を手にし、著者が自分を語るこの部分を読むとしたら、どんな風に読まれるのだろうか。気になる。

俺の読み方が悪いのか、書くほうが表現しきれていないのか(もしくは、あえて表現しなかったのか)わからないのだが、制作する原動力というか、「誰にも止められないような激しいパッション」のようなものが感じられなかった。(「毎日作らないと生きていけない」タイプではない、と書いてあるから、そういうパッションはなかったのだろうか)

こういう言い方は失礼かもしれないが、「特別な」肩書きにこだわりすぎているような印象を受けた。(だからこういう本を書かれたんだと思うが)

アーティストって、そんな特別なものだろうか? 俺はアーティストになりたいと思ったこともないし(ないので)、別に世間で「アーティスト」という肩書きが濫用されていても、全く気にならない。「猫も杓子もアーティストと呼ばれてモヤモヤする」のは、著者が「こんな人たちと一緒にされたくない」と感じているからではないかと思うが、この問題が社会的な普遍性を持つのか、それとも、あくまで私的な個人的なものなのか、ちょっと判断が付かない感じだ。

例えば音楽シーンで使われる「アーティスト」という言葉。

WikipediaのArtistの項には、このように書いてある。

The term is often used in the entertainment business, especially in a business context, for musicians and other performers (less often for actors). "Artiste" (the French for artist) is a variant used in English only in this context. Use of the term to describe writers, for example, is certainly valid, but less common, and mostly restricted to contexts like criticism.

この語(artist)は、エンターテイメント産業で頻繁に用いられる。特に、ミュージシャンやその他のパフォーマーについて(俳優ではそれほど多くは使われないが)、商業的な文脈で用いられる。 "Artiste"(artistのフランス語)は、英語では、この文脈でのみ用いられる。(文章を執筆する)作家を指すのにこの語を用いるのも正しいが、それほど一般的ではなく、ほとんどの場合、批評の文脈で用いられる場合に限られる。

Artist - Wikipedia

英語圏ではフランス語で言うんだそうだ。外来語だからカッコイイ、その程度のうすっぺらい動機でアーティストという言葉を好む人も多いのではないか。

また、片岡鶴太郎について述べている部分があるが、片岡鶴太郎は天才的モノマネ芸人だ。今は芸術家の「滑稽さ」を(恐らく一日24時間)見事に演じきっているのだと思う。彼がモノマネではなく「素」で芸術家をやっているのだ、と、著者が考えるのはなぜだろうか。

他にも細部で色々と疑問に感じる点もあるが、社会のなかでどのように「アーティスト」という言葉が使われているか、という切り口で、「アーティストとはなにか」ひいては「アートとは何か」について考えさせてくれる面白い一冊であった。

参考: アーティスト症候群−著者からのメッセージ

斎藤環のクオリア批判「わたしいまめまいしたわ」展、東京国立近代美術館

なかなか面白い展覧会だった。……といっても、普通の面白さではなく、胸焼けするような感じ。確かに「めまい、しましたわ」。

そこまで自分に興味があるのか! 別にどうでもいいじゃん、誰も君の事なんか気にしてないよ! と言いたくなる。

自画像やセルフポートレートなんかは、まだわかりやすいからいいんだけど、例えば浜口陽三の裸婦のデッサン。なるほど、これは、裸婦を見て描いているように見えて、自分の腕試しというか「自分の観察」にもなっているのか。出来上がりを見て考えるのは裸婦のことではなく自分のことだったりするのだろうか。

舟越桂の彫刻。以前から、人物の絵や彫刻を見ると「この芸術家は人が好きなんだなー、何時間も、何日も人を観察してこうやって作品作るんだから。俺は嫌だなー全然興味ないし」なんて思っていたのだけど、芸術家の「人への関心」ってのは「自分への関心」にもつながっているのであろう。

河原温の作品もそう。自分の存在に対する関心が作品のテーマだったのか。なるほどわかりやすい。

展覧会について言及しているブログを検索して色々拝見していたら、「自意識過剰が気になる」と書いてらっしゃる方がいた。そうそう!! 自意識過剰!! でも自己に対する意識ってのは他者に対する意識にもつながる。芸術家ってのは「自分は何者なのか?」を考えることを通して他者を、社会を考える存在……なのだろうか。

アーティストに自意識過剰は付き物かもしれんが閉じてちゃかなわん。絵にしろ、歌にしろ、マンガにしろ、昔のでも今のでも、ナルシシズムが強いのはイヤだな、と思った。つきあう義理がないし。

http://normal.jpn.org/diary/2008/01/post_340.html

で、展覧会を見終わったあと、ミュージアムショップで「現代の眼」という、この美術館が隔月で発行しているニュースレターを買ったのだが、そこで斎藤環が「『私らしさ』の陥穽」と題して書いていた、この展覧会についての話がとても面白かった。

まず「アウトサイダー・アート」の話。

アウトサイダーってのは「正規の美術教育を受けてない」からアウトサイダー、というのがもともとの意味なんだろうけど、世間で言われているアウトサイダーアートの語感はちょっと違う。(独特の雰囲気を伴っている) 斎藤環はこのアウトサイダーを「表現者を演じる訓練を経ていない人々」のことであると定義する。「自我」と「表現」が「膚接していて隙間がなくなってしまったような状態」であると。

その表現は「表現であって表現ではない」「世界そのものすなわち自己そのもの」である。「他人に見せるためではなく、ただ自分自身のためだけに制作されたもの」である。

で、私たちがアウトサイダーに魅力を感じるのは、彼らの作品にダイレクトに表出している「私」に対して感じる(我々の)「失われた私」に対するノスタルジーなのではないか、と言う。

つまり、こういった表現は作為抜きに、自分の体の一部であるかのように自然に表現され(窮屈な社会のしがらみから自由であるように感じられ)、あぁ、いいわぁ、自由だわぁ、と感じられる、ということだろうか。(この段落、俺の解釈で書いてます)

で、そういったノスタルジーは「巧妙に偽装されたナルシシズムの徴候」であり、その代表が「クオリア教」なのである、と。

で、斎藤環が信頼するアーティストはそういった「素朴な私の全肯定」(俺が赤だと感じたんだから、それは赤なんだよ!! みたいなものか?) そういったものからは距離を置いている。例えば会田誠は、そういったアウトサイダー表現に見られるような「私」を先鋭的に拒否している。中ザワヒデキもそう。作品制作の過程に「私」を介在させないよう意識しているのだという。

で、じゃあ「私」を介在させずに何をどう表現するのか? と、ここで岡崎乾二郎クオリア批判を引用し「『赤でありながら赤らしくない』というのが赤の色を知覚すること」であるのと同じように「『私』らしくないものを『私』が作ってしまう必然性に表現の本質が宿る」のである、としている。

いささか乱暴な要約になってしまったが、この「現代の眼 567号 12-1月号 (2007-2008)」は薄くて安い割に面白く読めるのでお買い得だと思うので、興味のある方は買って全文読んでみて欲しい。

で、俺はこの話、あまりぴんと来ない。

アウトサイダー的直接表現と、「表現者として演じる」ことで表現されたもの。

後者が前者より巧妙な表現であることは確かだと思うけど、それだって結局「憑かれたように」「そうするほかはない」という衝迫(衝動・気迫?)があってはじめて表現を完成させられるもので、表現者を演じている、と斜に構えてみたところで「それ以外の表現」ができないことには変わりないのではないだろうか。

それに今回の展覧会を振り返って考えてみると、先に引用させてもらったような「閉じた自意識過剰・強いナルシシズム」を俺も感じたんだけど、これらの作品は後者なのか? 前者ではないのか? 岡崎乾二郎の作品なんて、一周しちゃってナルシシズムアウトサイダー作品にしか見えないけれど。

……と思った。

「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」展
会場: 東京国立近代美術館
スケジュール: 2008年01月18日 〜 2008年03月09日
住所: 〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1
電話: 03-5777-8600(ハローダイヤル


数百メートル離れたところにある工芸館の展覧会も面白かった。須田悦弘のさりげなさすぎる木彫(会場入り口に作品一覧があるので、それを見ながらまわると、見逃さずにすむはず) 北川宏人の今風の若者の彫刻。あーいるいる、こういう人……って感じだけど、よく見ると、いそうでいない感じにも見える。橋本真之の巨大作品も面白い。物理学者が宇宙論の講義で解説に使いそう。その他、蒔絵の飾箱、ガラス細工、織物などお宝満載。めまい展の券があれば無料で見られる。2月17日まで。

「開館30周年記念展 II: 工芸の力 - 21世紀の展望」
会場: 東京国立近代美術館工芸館
スケジュール: 2007年12月14日 〜 2008年02月17日
年末年始休業日:12月29日〜1月1日
住所: 〒102-0091 千代田区北の丸公園1-1
電話: 03-3211-7781 ファックス: 03-3211-7783

文化庁メディア芸術祭、六本木・国立新美術館、他

六本木は色々行きたいところがあるのだが、まず「六本木通りの北のほう」から、いってみることにした。

まず国立新美術館の「文化庁メディア芸術祭受賞作品展」

メディア・アートは、見て面白いと思うことがほとんど全くないので今回も期待せずに見にいったのだが。 (「つまらない思いつきにしか見えないけど、これ作ってる本人は凄いと思ってるんだろうなー」といった感じの冷めた目でどうしても見てしまう)

今回は意外と面白かった。

エンターテイメント部門奨励賞の絵本「匂いをかがれる かぐや姫」が面白かった。

匂いをかがれる かぐや姫 ~日本昔話 Remix~

匂いをかがれる かぐや姫 ~日本昔話 Remix~

昔話を機械翻訳にかけて、日本語→英語→日本語と訳してヘンテコな文章に仕立てたもの。文章のヘンテコさ具合は「予想通り」なんだけど、文章を、うまいぐあいに「フォントいじり」して強弱つけて、そこに面白い絵を添えているので、楽しく読めた。

もうひとつ面白かったのが、メディア芸術祭と同時開催の「第13回学生 CGコンテスト受賞作品展」で、インタラクティブ部門の優秀賞をとった金沢美術工芸大学の川和田氏の作品。

この↑ページの「動画を見る」をクリックすると作品を見ることができるのだが、(これね)これはテレビのリモコンを題材にした作品。飯を食ってる映像を見ながら、早まわしボタンを押すと、映像が早食いになる(本当にはや食いしている映像に切り替わる)といったもの。

会場には、川和田氏の作品ファイルが置いてあって、彼の過去のいろんな作品を見ることができるのだが、これがとても面白かった。こういう楽しいかたは、卒業後はどんな世界で活躍していくんだろうか。楽しみ。

さらに出口近くでは、「先端技術ショーケース」コーナーが。全国の大学で研究されてる先端技術の展示も。

「第11回 文化庁メディア芸術祭」受賞作品展開催
会場: 国立新美術館
スケジュール: 2008年02月06日 〜 2008年02月17日
住所: 〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2
電話: 03-5777-8600


その後、3Fの図書室で横浜美術館の「ゴス展」の図録を読む。(これが今回、新美術館に来た目的だったりする)

なかなか面白い図録だった。キュレーターの解説文が面白かった。「ゴシック」の歴史から現代日本ゴスロリとの関連まで詳しく論じていて、なかなか説得力があって面白かった。作家のインタビュー記事も面白い。展覧会を見たかたはこの図録を読むとさらに理解が深まると思う。

ちなみにこの図書室は展覧会図録が結構たくさんあるんだけど、こういうことらしい。

(撮影禁止なのにこっそり撮ってしまいました)

それと、どうでもいいけど、横山大観展は20mくらいの行列で入場制限してた。

で、続いて東京ミッドタウンをうろうろ。

Tokyo Midtown

……する前に、東京ミッドタウンミッドタウンの前の交差点で苫米地博士の事務所(?)を見つけてしまった。(洗脳の専門家でオウム事件の時、脱会者の洗脳を解いて(テレビなどにでて)有名になったかた)

夢をかなえる洗脳力

夢をかなえる洗脳力

東京ミッドタウンミッドタウンでは、家具屋さんTIME&STYLE MIDTOWNの店内で開かれているドローイング展を見る。

グループ展はいろんなかたの作品を一度に見られて、それはそれで、いいんだけど、展示作品の点数が少ないので、それぞれがどんな作家さんなのか、いまいちわかりにくいという欠点もあるように思う。

一度に展示する作家さんの数を半分とか三分の一にして、展示する作品の点数を二倍・三倍にしてもいいんじゃないだろうか。そのぶん会期をわけて短くして (……とグループ展を見るといつも思ってしまう) でっかーいドローイングが面白かった。

で、その家具屋さんのお向かいでは「豊嶋康子の多層系」展が。

確か、以前、府中市美術館の府中ビエンナーレで見た、茶碗のかけらの作品をまた見ることができた。他にも色々な概念的芸術作品が。豊嶋康子さんは哲学者だなーと思いつつ鑑賞。(ハンコの作品も前、見たような)

「第2回多層系表現展」
会場: Fuji Xerox Art Space
スケジュール: 2008年01月26日 〜 2008年02月24日
住所: 〒107-0052 東京都港区赤坂9-7-3 東京ミッドタウン ガレリア 3F
電話: 03-3585-3211

サントリー美術館ロートレック展もちょっときになってるんだけど、くたびれたのでこの日はここで終了。

ゴス展・横浜美術館

ゴスっていうのは、「ゴスロリ」のゴス、「ゴシック」を日本語のように略した言葉……かと思ったらそうではなかった。 もともと"Goth"とはゴート人のこと。goth-icで「ゴート人っぽい」が原義ではないだろうか。といっても、この展覧会で言う「ゴス」はゴート人という意味では(もちろん)なく、これは19世紀のゴシック小説の世界観に影響を受けた80年代のサブカルチャー "Goth subculture"に染まってる人(←なぜかこのWikipediaの項は日本語版が無い) 、というような意味だろうか。

はっきりいって、あまり興味の無い分野だったので、全く期待せずに見に行ったのだが、なかなか面白かった。

なかでも興味深かったのが Dr. Lakra。メキシコ人のアーティストで刺青の彫師もやってるらしい。

古い写真などの上から色々描いていく作品。刺青っぽい模様だけでなく、いろんなものが描かれている。

見にいきたかったな、オープンスタジオ。他にもこんな感じの大きなイラスト(これは展示されてたのとは違いますが)や、立体作品などもあった。展示されている大きなイラストは(多分)日本で制作したものだと思うけど、なかなか良い雰囲気であった。

また、ピュ〜ぴる (http://www.pyuupiru.com/ )の作品もとても興味深い。(2005年の横浜トリエンナーレにもでていたかたらしい)

男性から女性、モンスターから完全なる自分へと変貌を遂げる軌跡を、ポートレートと立体作品、パフォーマンスにより表現。(トーク:1/26、パフォーマンス:3/22)

http://jiu.ac.jp/yma/goth/artist5.html

展示されているのはご本人のブログによると、

新作の立体と未発表ポートレイト38枚からなる連作

http://pyuupiru.seesaa.net/article/74592491.html

……とのこと。文字通りの「力作」。圧倒された。 体の痛みや、社会とのかかわりのなかで感じ続けた違和感・摩擦など、いろんな思いがこもっているんだろうけど、「ゴス・カルチャー」的にみると、ある種(?)の耽美主義的なこだわりのようなものすら感じられるポートレイトの連作。

狭義のゴシックファッションなど、「ゴス的」なものがみられるのは吉永マサユキの写真だけで、あとは概念的に拡大解釈すると「ゴス的なのかなあ?」といった感じの作品が多かった。ゴスファッションマニア向けの展覧会ではない、と思う。

ファッション・文化全般に興味があって、「ゴスってなんだろー」と考えながら見ることができる人なら誰でも楽しめるのではないだろうか。(男性器が写ってる作品があったりするので、そういうので気まずい思いをしない人ならば、という限定つきだけど)

ゴス展 GOTH : Reality of the Departed World | 横浜美術館 YOKOHAMA MUSEUM OF ART

追記: いつもid:ogawamaさんのはてブ経由で楽しく読ませてもらっている「徒然と(美術と本と映画好き...)」さんのエントリーが面白かった。

一見して「テーマに沿ってるのかどうかよくわからない」展示が多いので意味不明だと感じるかたも多いと思う。あと俺が行ったときにはさすがに図録の確認はなく、かわりに確か「性的な表現があるけど大丈夫か?」といった質問をされた。寝袋の彫刻は……束芋氏はゴスロリのポートレイトを観て、「内臓が身体の表面に出てきている」と話したらしいが、拡大解釈するとそういったものとの類推が考えられる……のかもしれない。(俺もナンジャコリャと思ったけど)

参考: 【現代アートクルーズ】自己表現を追求する現代の「ゴス」- MSN産経ニュース

企画した木村絵理子学芸員は、中世から脈々と受け継がれる「死を想う美術」の系譜に「ゴス」を位置づけ、「死を想うことは生きる意味を見つめることだ」と説く。(中略) また「ゴス」は、世の中の保守的な趨勢(すうせい)からは排除されてしまうもの、合理的発想では割り切れないものを包み込む。とはいえ、現代の「ゴス」は、ガチガチの社会に影響を与えるというよりは、ひたすら「自己」に向かっているようだ。特に身体改造を扱う表現が多い。

http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/080109/art0801091609001-n1.htm

「ゴス」展
会場: 横浜美術館
スケジュール: 2007年12月22日 〜 2008年03月26日
休館日: 木曜日(1月3日、3月20日は開館)、12月29日〜1月1日、3月21日
住所: 〒220-0012 神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1
電話: 045-221-0300 ファクス: 045-221-0317